温かい湯に浸かると、ほっと溜息が出た。
そういう自分に気が付いて、一人赤面したが、幸い周りにお湯に浸かっている人はいなかった。
――播磨国、有馬の湯が素晴らしいと話を聞いて、京からやって来たのだった。伝聞通り、景色もお湯も申し分ない。ただ日頃の疲れのためか、気づくと息を吐いていることがあるのが困りものである。
日が高いうちに京を出て、この地に着いたのは夕暮れだった。道中の景色も良かったが、夜の空も言葉で表せないほどに美しい。
(……とても贅沢。なんだか、忙しいことを忘れてしまいそう)
と、考えてしまうのは、やはりこの湯の魔力なのだろう。
のぼせないうちに、と思い、詞紀は湯から出た。夏も終わろうとする夜の空気は、この頃冷え込みを増している。
手早く自分の着物を身に着けると、借りている一室へ戻っていった。
縁側を歩いて、宛がわれた部屋の簾を上げて入ると、几帳の向こうではすでに酒の入った恋人が上機嫌に楽しんでいた。
「やあ、詞紀。有馬の湯はどうだった?」
「はい。とても心地よかったです。……古嗣様、お酒はどれぐらい?」
彼の隣に座って、そう訊いた。
「ああ、いや、大した量は飲んでいないよ、詞紀。そんなことより、この魚を頂いたら。このあたりで獲れたばかりの、新鮮なものだって」
「……お酒がお好きなのはよろしいのですけど。――では、少しいただきます」
古嗣が手に持った器から、箸で一口、魚の炊き物をつまんで、口に入れた。八方山ばかりの信濃国には新鮮な魚は届かず、従って食事になることもないのだが、やはり海が近い土地の魚は身も甘くやわらかい。生臭くもなかった。
「古嗣様、とてもおいしいです」
「そうだろう?」
「ですが、こちらのお野菜も口にしてください、古嗣様。好き嫌いはいけません」
「……うっ、あ、ああ、そうだね」
苦笑を頬に引きつらせ、古嗣は魚といっしょに炊いた根菜を口に入れた。
そうして楽しい食事は済んで、詞紀も少しだけ酒をたしなみながら、
「それにしても、播磨はとても賑やかですね。昼間通った街道では、長くお店が連なっていました」
信濃国にも大きい市は立っているが、その規模とは比べものにならない。
京の市の賑やかさにも驚いたものだが、播磨国の街道はそれに並んだ。
「港が近いからね。それに、国守となるにも、ここは誰もが就きたいと思わせる土地なんだよ。まあ、京と距離が近いせいもあるけど」
「それに、住んでいる方々の顔が輝いていました。政がうまくいっているおかげなのでしょうか」
「ああ、それは、今の国守の腕によるかな」
そう言って古嗣は現在の播磨守について教えてくれた。口数は少ないが、実直に仕事をこなす男だということだ。
と、説明してから、彼は笑った。
「一息つくためにここまで来たのに、まるでこの国を視察した報告みたいだね、詞紀」
「……あっ、申し訳ございません。なんだか、見たこともない土地に来ると、人々の顔を見てしまって」
「そうだね、君は玉依姫だから。季封の皆に、そうやって接してきたのだろう?」
「はい」
「それにしても妬けるな」
水を差すように、口調を変えて、古嗣はうらめしそうに言った。
「な、何にですか」
「君の心を、まだ占めている季封の皆に」
彼は、詞紀の手首を掴んで、腕の中へと引き寄せた。
たちまち整った顔が目の前に近づく。弱い酒のせいか、押し返す力も出ない。――それとも、押し返す気がないのか。血の流れが早く感じるのは、酔いが回っているのかどうか。
ここが見知った京ではないことが頭に閃き、この夜はいつまでも終わらない予感がした。
その予感も、重ねた唇の熱さのために、すぐ掻き消えてしまった。