駄目じゃないよ



 詞紀は厨の前で、そわそわと歩き回っていた。
 時々、中の様子を覗くが、気配を悟った主が咎めるように振り返ったので、慌てて顔を引っ込める。そしてまたそわそわと歩き回る。そういった行動を何回も繰り返していた。
「……うわぁーーーーっ!!?」
 派手に物の落ちる音と、悲鳴が同時に厨から響き渡る。
 咄嗟に飛び込むと、
「秋房、だいじょうぶ!?」
 と、食事当番の彼に訊いた。
 当番、といっても、普段から家事・料理担当を交替で行なっているわけではない。今朝、急に秋房が思いついたのである。――『今日は俺が食事を作るよ、詞紀』と。
 幼い頃から知っているが、彼が家事をしている姿を、少なくとも詞紀は見たことがない。(しかし一人部屋を与えられていた秋房だから、それなりの家事は出来たとしてもおかしくはなかった)
 それでも、考えたことをすぐ行動に移して、詞紀を心配させる彼のことだから、料理をする、と言われた時に、嬉しさと同時に不安を抱いたことも事実だ。
「――だ、だいじょうぶです、姫様! 夕餉は期待して待っていてください!」
 慌てるといつも、昔からの呼び方が出てくる。
 いつもは注意する詞紀も、今だけはそんな余裕をなくしていた。
 秋房が一人で、倒した調味料や食器を片付けているのを見守ってから、名残惜しく厨を後にした。夫となった人なのだから、彼の気持ちを尊重することも妻としての努めだ。

 ――夕餉は普段より一刻も遅く、始められた。
 二人の間に並んだ食膳は、くちゃくちゃに溶けたお粥と、具の浮かんでいない汁物、形の崩れた里芋を焚いたものが並んでいる。
 一方、作った本人は詞紀の前で、肩をすぼめて頭を垂れていた。
「い、いただきます、秋房」
「……いえ、無理しないでください」
 細い声が自信のない言葉を呟く。
 まず汁物の器を手に取ってすすると、味は何もしなかった。
(……白湯?)
「秋房、お塩を少し入れればよかったかもしれない」
「はい……」
 垂れた頭がもっと垂れた。食膳に額がつきそうだ。
 次に詞紀は里芋に箸を伸ばす。今度は味が濃い。
「……これは、お味噌?」
「はい! あの、母上が作った料理が、確かこういう味が多かった気がして!」
「でも、なんだかお味噌の味しかしないの、秋房」
「う、うぅ……」
 一度は上がった頭が、また、がくんと垂れ下がった。自分の作った料理の器に、顔を突っ込みそうだった。
「……姫がいつも忙しく働いているから、せめて俺も同じことを手伝おうとしたんですけど。迷惑ですよね、すいません」
 と、自分で自分を責めて反省するのは、秋房らしい。
 しかし、詞紀は慰めでも同情でもなく、にっこりと笑って首を横に振った。
「迷惑でも、駄目でもないわ、秋房。あなたは私に楽をさせてくれるために、自分から料理をすると言ってくれたでしょう。その気持ちがとても嬉しいし、料理は大切な人のために作るものだから、美味しいとかそうじゃないで判断できないのよ」
「姫様……」
 光明が差したかのように、顔を上げた秋房がぱちぱちをまばたきをしながら詞紀を見つめてくる。
 その秋房に対して、詞紀は言った。
「だから、秋房もいっしょに食べましょう。残すのは、作った自分に失礼でしょう?」
「はい!」
 と、勇気づけられたように、彼は背筋を伸ばして箸を手に取った。
 大切な人の落ち込んだ顔よりも、元気な顔のほうがいいに決まっている。詞紀は安心して頷いた。
 そして暗い秋の夜に、秋房の「不味ーーーーいっ!!」という声が、春香殿と神謁殿に響いた。