前髪を梳くしぐさ



 待ちに待った春は過ぎて、夏も終わり、季封の村は枯れた色に包まれる。
 乾いた落ち葉をさくさくと踏んで歩く音は二人分。秋の気配と透き通った空気に誘われて、仕事も後回しにして季封宮を出てきてしまった。
「春が最も美しいと思っていたが、秋も捨てがたいな、詞紀」
 幻灯火が、風に吹かれて落ちる枯れ葉を手に取って、興味深い目で見つめながら言った。
「そうですね。春の花が咲く様子は言うまでもないのですが、山が色を変えていく様子は春と違った美しさがあります。けれど、なんだか物寂しい気がして、溜息がこぼれてしまうのですが……」
「寂しい……うん、確かにそうだな。だが枯れ葉を落として、冬の支度に入り、春までの間、木々はじっと花を咲かせる準備をするのだろう」
「はい」
「ならば、その寂しさも受け止めねばならないな」
 また風が吹いて、ちょっとした油断から幻灯火の指につまんでいた葉が飛ばされていった。
 二人の目がその葉を追うが、当然すぐに見失った。
 村の中心より離れた、森も近い小道である。あっと詞紀が声を上げた。
「幻灯火様、あの木にあけびが生っています」
「……あれは、うまいのか?」
「はい。子供達が自由に採って食べたりするんですよ」
「では、皆に土産として持っていかなければな」
 ――紅陵院にいる孤児達を、彼は自分の身内のようにかわいがっている。
「それに、木の側には茸がたくさん生えています。鍋に入れたり、ちまきに入れたらとてもおいし……」
 そこで詞紀は口を閉じて、さっさと木の下へ急いでいってしまう。「ちまき」と聞いたら我を忘れる恋人だ。
 予想通り、幻灯火は彼女の言葉を聞くと、目の色を変えて詞紀より先に茸へと飛びついた。
「詞紀、どちらが多く取るか競争しよう。勝った方がちまきを多く食べられるというのはどうだ?」
「い、いいえ、私はそんなにいりませんから……」
 苦笑しながら、広げた袖の袂に茸をもいで集める。時々様子を窺がうと、幻灯火は熱心に土の上を睨みながら、茸を選別している。つやのある白銀色の、前髪がはらりと目の前に落ち、泥のついた手が掻き上げた。
 ちょっと気になったことがあったが、それが何かはっきりと分からず、首をかしげながら茸を取る手を動かす。
 袂の中の茸はたまって重くなり、強い香りが鼻先に漂ってくる。
(こんなに集まったら、本当に、何を作ろうかしら。本当に、ちまきをたくさん作れそう)
 と、料理について考えながら、ふとまた幻灯火の様子を盗み見ると、右手で前髪を押さえつつ、茸を採っている。
「幻灯火様」
 思わず彼の名を呼び、立ち上がって側へ近づいていく。
「髪、結びましょうか。土だらけの手で触ったら、せっかくきれいな髪がよごれてしまいますから」
 地面に拾い集めた茸を置くと、懐紙を出して自分の手を拭いてから、自分の髪飾りの紐を一本ほどいた。
 幻灯火のきれいな髪を一つにまとめる詞紀へ、ちょっとおとがいを見せて、
「それを使っては、お前が不自由になるのではないか?」
「いいえ。だいじょうぶですから、気になさらないで下さい」
 髪を一つに束ねて根本を紐で結んだ。いつもそのままに流している彼の髪型だから、改めて彼の顔を正面に回って覗きこむと、違った印象になって思わず放心してしまった。
「どうした?」
「あ、いいえ……、もっと、もっと茸やあけびを採って帰らないと、子供達がおなかいっぱい食べられませんね」
「うむ、それにたくさん採って帰れば、それだけちまきをたくさん作るのだろう?」
 外見はいつもとちょっと印象が変わっても、当然ながら中身はちまきにこだわる幻灯火だ。
 詞紀はくすぐったく笑みをこぼすと、「では、今夜は腕によりをかけて作らなければ」と言ってまた多くの茸を拾っていった。
(なんだか、子供の頃に戻ったみたい)
 ――そういえば、少女だった時にも、こうして茸や山菜を採りに来て、視界を覆ってしまう髪を、母が結ってくれた記憶があった。
 それはとても幸せな過去だけれど、今はそれに劣らないほど幸せだった。
「幻灯火様」
「なんだ、詞紀」
 穏やかな笑みを浮かべて、恋人へ顔を向けると、まるで心が通じ合ったかのように、髪を結い上げてはっきりと見える笑顔がこちらを見つめていた。
「今度は、紅陵院の子供達もいっしょに、来ましょう」
「ああ、そうだな。こんなに楽しいことなら、彼らにも楽しませてやらねば」
「はい」
 頷いた時、秋の風が吹いていった。涼しいはずの風は、今はとても心地よかった。
 日は傾いて、真っ赤な山をさらに赤く染めた。