とりわけ大切な理由



 秋はしだいに深まって、凍える冬が近づく季節。
 今まではただ物憂げになるだけだったこの時期も、愛する人と寄り添う今は苦にもならなかった。
 その愛する人が、ある日ひかえめに言った。
「卯紀様が作ってくださった料理が食べたい」
「母様の……?」
 朝の食事で向かい合いながら、詞紀は思わずおかずに伸びる箸を止めて智則を見た。
 彼は口にしたことを後悔するように、苦い表情をしていた。
 毎日二人で取る食事は、詞紀が担当している。それは亡き母が自分にそうしてくれたからだ。詞紀が作った料理を前にして、そんなことを言ってしまったから、そういう顔をしているのだろうかと察して、彼女は笑みを浮かべて続きを促す。
「智則、言って。私も、あなたの思い出の中にある、母様の料理を知りたいから」
 ――幼い頃、宮殿で詞紀と遊び相手になっていた智則と秋房だから、むろん卯紀の作るものを食べたことはある。
 ただ、本当に幼かったことだし、母が亡くなってから今までの経緯が経緯だから、そんなことを口に出来る余裕は二人になかった。
「あ……いや、俺は料理に詳しくないから、それがどんなものだったか、はっきりとは思い出せないんだけど……」
「ううん、じゃあ、どんな味だった?」
「子供向きだったから、甘かった気がする。それから、口に入れたらやわらかくて、少し粘りがあったような……」
「……里芋?」
「そうだとしたら、きっとこの煮物を食べて思い出してるんじゃないかな。詞紀の作る味は、やっぱり卯紀様のものと似ているから」
 と、言って、食膳に並ぶ里芋の煮物を持った器を見た。
 尊敬する母と、味が似ていると言われて、詞紀は思わず顔をほころばせた。と喜ぶ傍ら、幼い頃からずっと母の味で育ってきたのだから、味が似るのも当たり前かと思い直しもする。
 だからこそ智則が食べたいと望む母の味が知りたい。それはきっと詞紀もいっしょに食べているはずなのに、智則がたぐる記憶の聞いても、それかと断定できるものは思い出せなかった。
「それにしても、智則がそんなに食べたいと言うなんて。きっと大切な思い出なのね」
 元々、食の興味が深い智則ではない。仕事が詰まったら、無理やり引っ張り出さなければずっと自室にこもっているような性質だ。
 詞紀が溜息を吐くように呟いた言葉に、意外に彼が動揺したように目を開いた。
「……いや、たぶん、それほど深い思い出じゃ……」
 いつになく自信なさげに、顔をそらして小声で否定する。
 そんなに都合が悪い思い出なのか? 詞紀もまた幼い頃の記憶をたぐってみたが、案外卯紀や自分と、秋房、智則が過ごした食事の時間は多くて、思い当たる出来事は見つからない。
「……こんなにおいしいの、ずっと食べていたい」
 智則が感情を押し殺す声で呟いた。その時、靄のかかる詞紀の記憶の一端がぱっと閃いて、わだかまる靄を吹き飛ばした。

 ――今とあまり変わらない春香殿の、玉依姫の私室で、三人の子供達と一人の女性が食膳を前に置いて、輪になって座っている。
 一人の男の子は「いただきます」と言ってから、お椀に盛ったお米にがっついた。女の子はおかずを順番に箸でつまんで、おいしそうに口に運ぶ。もう一人の男の子は、目を輝かせて一つの器を差しながら女性に言った。
「卯紀さま! これ、すごくおいしい!」
「ありがとう、智則」
「母さまのつくったものだもん、おいしいよ」
 女の子が頬張りながら得意げに女性を見上げる。
「詞紀、女の子が口にいっぱい食べ物を詰め込まないの」
「ふぁい……」
 下頬を膨らませたまま、女の子がうつむいた。
 男の子は一つの器だけを食べ終えてから、夢から覚めた顔になって、
「もう食べちゃった……こんなにおいしいの、ずっと食べていたいのにな」
「そんなに気に入ってくれたのなら、私のも少し分けてあげる。今度は智則のためにいっぱい作るわね」
「はいっ、卯紀さま!」
「そんなに好きなら、母さまの子どもになれば? 智則」
 頬の中の食べ物を飲み込んで、女の子が小首をかしげる。
「そうしたら、ずっとずっといっしょだよ」
 無邪気に女の子が言う言葉を、意味こそ深く知らなくても、男の子は急に恥ずかしくなったように黙り込んで、お米をかきこんだ。
 横でもう一人の男の子が、空になった器を女性へ差し出して叫んだ。
「おかわりっ!」

 ――そんな過去があった。
 あの頃は毎日がとても幸せで、一つひとつのことを鮮明に覚えていることは出来ない。
 けれど思い出せば、そのことがあったから辛い冬を乗り越え、今に至るのだと気づける。
「そんなこと、言っていたのね」
 幼いとはいえ、自分は結構恥ずかしいことを言っていたことに、詞紀は顔から火の出るような恥ずかしさを感じる。
 食事を終えて、神謁殿へと向かう途中だ。
「ああ、でも、そこまで思い出したのに、あの時何を食べたのか分からないわ」
「そうだろうな。頬にたくさん詰め込んでいたら」
 智則が微かに笑って混ぜっ返す。
「……そんなこと……だいたい、智則が始めに食べたいものがあるって言ったから……」
「ああ、ごめん。――だけど、どうしても、とは言わない。幼い頃の思い出として残して、これからは違うものを思い出にしていけばいいんだから。詞紀の、手作りとして」
 ちょっと呆気に取られて智則を見つめていたが、ふと笑みを浮かべて頷いた。
 並んで歩く彼の腕を軽く取って、指と指を絡めて手を繋ぐ。
 そうやって歩きながら、智則が呟いた。――「思い出したら、作ってもらおうかな」
 ちょうど同じことを考えていたから、思わず笑みをこぼして、繋いだ手に力を入れた。
 太陽が昇る今日の気候は、心地のよい秋晴れだ。