穏やかな空気を持つひと



 刀を正眼に構えて集中すると、風の吹く音さえ耳に鋭く突き刺さってくる。
 信濃国を去り、東海道の街道に点在する宿の一つ。部屋の前の小じんまりとした庭で、剣術の型を繰り返している。
 季封の集落にこもっていた頃は、玉依姫としてそれなりに剣術を学び、一介の剣士よりは劣らないと信じていた。それが《オニ》の出現とともに、様々な人と出会った時、自分より強い者はまだたくさんいるのだと思い知らされたものだ。
 彼らがいるから、幼い頃から何度も続けていた刀の基本的な動きも、今になってまだ見直してみようという気になる。
「おう、精が出るねえ」
 のん気な笑い声がして、詞紀は顔を向けた。宿の廂の下を、恋人が微笑みながら歩いてくる。
「胡土前様。どちらへ行ってらしたのですか」
「うーん、ま、ちょっと情報収集にな」
 少し考える表情になったのを、水に濁すように快活に笑った。
「何か、《剣》のことで新しいお話でも……?」
「まあ、そう焦るな。これが簡単に片付く問題じゃねえって、分かってんだろ」
「それは、そうですが」
 ――早く《剣》の破壊について解決して、胡土前と対等の関係になりたい。
 とは、なかなか言えない詞紀だった。そしてそう考えると、頬が熱くなって、胡土前を見ていられずに、さっと目をそむけた。
 呼吸を奪うような口づけをされるたびに、身の内から火照って、もっと抱きしめて欲しくなるのに。「それ以上触れない」と決まり事を作っている胡土前は、本当にそれ以上は触れてこなかった。
「……そんなことより、詞紀」
 と、彼が言いかけたので、詞紀は勢いよく廂へ振り仰いで、
「そんなことではありません」
 そう言い返してしまった。
「あ……すいません、失礼な口の利き方を……」
 自分の考えていたことを無下にされたようで、気が高ぶってしまったが、そもそも今まで話していたことは《剣》についての情報だ。
「……ああ、そうだよな。《剣》については、そんなことで済ませるわけにはいかねえよな。すまん、俺も言葉が足りなかった」
「いいえ、そんな」
 かぶりを振りながら、相手に知られず、詞紀は息を吐いた。自分だけの焦りのために、相手に八つ当たりしてしまったことがいたたまれない。
「詫び……でもないんだが、これを目的にしてたわけでもねえ。といっても、ついでってわけでもないけどな」
 胡土前にしては珍しく、不明瞭な口振りで前置きをして、廂の上にどさりと置いたのは、美しい布の包みだ。
 片膝をついて、包みを解いていくと、見事な刺繍の生地が近づいて覗き込んだ詞紀の視界に広がった。
「え……、あの、着物ですか?」
「いつも旅装束ばかりだからな。たまにはいいだろ。旅の最中だし、たぶんこれきりしか買ってやれねえが、姫さんは別嬪なんだから時々こういうのを着てもいいんじゃねえか」
 刀を鞘に戻し、空いた両手を伸ばして胡土前が差し出した着物の生地に触れた。
 この旅に出てから、一度も夢を見たこともなかった。彼と二人でいることが嬉しいし、それに全てが終わってから二人の思う通りになるのだから。
 《オニ》と戦っている間、冬が明けるのを夢見て、それが叶った。ならばこの《剣》を破壊する旅も、いずれ終わるに違いないのだ。
「……ありがとうございます、胡土前様。大切に着ますね。……でも、もったいなくて着られない」
「おいおい、着なきゃ買った意味がねえだろう」
 呆れたように胡土前は笑った。その穏やかな雰囲気につられて、詞紀もくすと笑みこぼす。
「お礼に、囲碁を教えましょうか」
「教えてもらわなくても、俺は強えっての」
「ならば次の対局、きっと水柱を使わないでいただけますね?」
 一夜借りている部屋へ戻りながら、二人はそんな会話を繰り返す。
 いつかは解決しなければならないが、急いでいるわけでもない。幸せな長い旅路は、まだ始まったばかりなのだ。