6.腕枕をして

 ぱっちりと目を覚ますと、灯りのない闇の中だった。
 眠っていたのが、自然と目を覚ましてしまうと、寝返りを何回打っても再び寝付くことは難しい。
 諦めたような息を吐いて、寝台から身を起こすと、衣ずれの音とともに立ち上がって私室を抜け出した。
 深夜だから当然だが、人の動く気配は自分のもの以外はない。そもそも春香殿は玉依姫の住む屋敷。必要以上の人数が夜動いているわけがなかった。
 そういう静かな夜の散歩をしていると、不意に詰まるような甲高い音が聞こえた。
 ――聞き覚えのある楽の音だ。京の秋篠古嗣が奏しているのを聞いたことがある。
 だが、この不器用な音色を笛だと断定するには、詞紀は首をかしげるしかなかった。笛を吹く古嗣は京にいるのである。それに、彼が奏でる笛の音は、こんなに音が途切れることはないはずだった。
 そう考えている間にも、切れ切れに楽の音が聞こえる。
 その音の跡を追っていくと、黒い影が廂の下に佇んでいるのが目に留まった。
 そっと近づいていけば、それが最愛の人であることが知れる。
「……幻灯火様。何をしてらっしゃるのですか」
 彼は弾かれたように振り返った。その口元には、両手で横笛を構えている。
「詞紀。このような遅くにどうしたのだ」
「目が覚めてしまって。……幻灯火様こそ、……その、笛を吹いていらっしゃるのですか」
「ああ、その、古嗣から少し教えてもらったのだが、やはり難しいな。あの者の吹くような音が出ない」
 詞紀が側まで歩いていく間に、幻灯火は諦めたような口調でそう言った。
 彼の横に腰を下ろすと、理解したように頷きながら、
「そうですね。楽器は難しいです。私も、うまく奏でたためしがなくて」
「お前も、こういうものは苦手なのか? 意外だな、石なごは私よりもうまいのに」
「……それと楽器とは違うのですが」
 だいたい、石なごだって上手いかどうかというより、幼い頃から母と遊んできた経験があるだけだ。
「でも、古嗣様も始めから上手だったわけではないと思います。何回も奏でて、試行錯誤をしながら上達していったのですから、幻灯火様、諦めずに吹き続けていれば、なめらかに曲を奏でられるはずです」
「ふむ。そうか。……不思議だな、詞紀がそう言ってくれると、そうなるような気がする」
 元々、疑うことを知らない幻灯火だから、素直に頷いてそう言った。
「あの、ところで、幻灯火様」
 こういう時に聞いてもよいものだろうかと考えつつ、詞紀はうつむきながら口ごもる。
「うん? どうした、詞紀」
「はい、あの、……一人だとなかなか寝付けないので、眠るまで隣に寝ていてもよろしいですか? 明日もやらなければならない仕事が多くて、少しでも多く眠っておきたいのです」
「詞紀」
 重厚な声音で幻灯火が咎めた。
「は、はい」
「水臭いぞ。私は、お前の夫ではないか。寝所を共にして何がおかしいだろうか?」
「……はい、そうですね」
 安堵して微笑を浮かべる詞紀の隣で、笛を奏でるのをやめた幻灯火が立ち上がった。彼の差し出す手に、手を重ねて、背後にあった幻灯火の寝所へと導かれていく。
 幻灯火も寝付かれなかったのか、寝台の上に布団がめくれたままになっていた。
「古嗣は、眠れない日などは心を静めるために笛を奏でると言っていた。それに倣って笛を始めようとしたのだが、やはり難しかった」
 詞紀の手を引いて、いっしょに寝台の上へと崩れて倒れた。彼女の頭を自分の片腕の乗せて、その髪を撫でながら幻灯火は囁く。
「いつか……お前が落ち込んだ時に、私の笛で元気をあげられるとよいのだが」
「え……」
 横向きになって、枕に手を置くように、幻灯火の腕に触れながら、
「私のために、笛を……?」
「半分は、本当に心を鎮めるためだ。けれど、もう半分は、最近疲れている詞紀が元気になるように、楽を奏でるのをうまくなりたいのだ」
「……誰かのために習うものなら、きっとうまくなります」
「誰かではない、お前のためだと言っているではないか」
 幻灯火が子供のような言い方をするので、可笑しくなって詞紀は笑った。
「何が可笑しい?」
 と、聞き返した幻灯火も、こらえていたものをこぼすように、声に出して笑う。
 ひとしきり笑い合ってから、詞紀は相手の胸にぎゅっと額を押し付けると、人のぬくもりを感じて、安心した。
 目が覚めた時には、朝日の差し込む部屋に、幻灯火の腕に抱かれたまま目を覚ました。