1.ごはん作って

「……あ、ええと、詞紀」
 ――秋の夜長に虫が鳴いていた。京、秋篠家の屋敷で、休息のためにお茶と唐菓子を持ってきた妻が戻ろうとするのを、古嗣は躊躇しながら呼び止めた。
「古嗣様。どうなさいました」
 少し距離を詰めて、彼女が聞き返す。首をかしげた様子に、いつもだったら「可愛いね」と口を突いて出てくるところが、今はうまく言葉が出なかった。
「うん、その、何というか……」
 空咳をして気を紛らわせようとするが、そうすると今度はどう切り出したらよいか考えていた言葉が頭から消えてなくなった。それに、だんだん彼女の顔さえ見ていられなくなった。
「なんだか、おかしいですね、古嗣様。どこか、具合でも……」
 と、心配そうな顔になって近づいてくると、書見台を挟んで向こう側から、顔を覗きこんできた。
「そ、そうじゃないんだ。……そ、それが、詞紀。明日の朝餉のことなんだけれど」
 さすがに体調を気遣われると、ためらっていることは出来なくなる。特に頭も体も重く感じているわけではない。
 けれど思うことを言おうとすると、やはり口が重くなって、古嗣は深く息を吐いてから、一息に言った。
「朝餉は、詞紀に用意してもらいたいんだ」
「……え?」
 詞紀が目を丸くして古嗣を凝視する。
「何故急に」
「その……季封で食べた君の料理がおいしかったから」
 心にもない文句はすらすらと出てくるのに、本当に心に浮かんだ言葉を口にしようとすると、どうも調子が狂ってしまう。
 言ったことは本当だけど、もっと言いたいことがあるのに。
 けれど、微笑みを見せて頷いた詞紀が、心を透かしたようにからかう口ぶりで聞いた。
「私が作るとなると、野菜もたくさん入れるつもりですが、よろしいのですか」
 ――それを頼みたくて、言葉が出てこなかったから、古嗣は何のためらいもなく二つ返事で頷いた。
「ああ、いいよ。でも、やっぱりそんなに多くは、入れないで欲しいな」
「分かっています。苦手なものを克服しようとして、それを毎日食べても、苦痛にしかなりませんから」
 頷いて、理解を示してから、詞紀は安心したように溜息と微笑を同時にもらすと、
「でも、嬉しいです。苦手なものが入っていても、私の料理を食べたいとおっしゃってくれるなんて。腕によりをかけますから、楽しみにしていてくださいね」
「うん、期待してるよ。……ああ、明日の楽しみが一つ出来たな」
 調子が戻ってきたように、古嗣は笑って言った。その笑みにつられて、詞紀も声に出して笑った。
 几帳の裾がぱたぱたと音を立てて、心地のよい、涼しい風が吹いてくる。