4.髪を拭いて

 水面をつま先で叩いて、ゆるやかに水の上に浮いていた。
 おろした長い髪は水の中で扇のように広がる。現世と違う水は、普段身を清めるのに使う水より、ずっと澄んでいるように思えた。その証拠に心が随分と解放されていく。目を閉じて、深く息を吐いた。
 ――思い返してみれば、予想もしていない現実となった。玉依姫として、いずれ自分の娘に殺される宿命を負った自分が、《オニ》をこの身に封じ、しかも心から愛する人と《剣》を消滅させる旅に出た。
 今回の旅がうまくゆけば、もう《剣》の呪いに怯えずに済む。そして、自分の娘に同じ思いを味わわせなくて済む。……そんなこと、《オニ》が現れる前の詞紀は、一度も考えたことがなかった。
「……紀、詞紀。気は済んだか。神産巣日を待たせてはならん」
「あ……はい、申し訳ありません」
 神産巣日、と聞くと張り詰めた緊張を感じる。
 水底に足をつけて、空疎尊のほうへ歩いていくと、急にやわらかい布が頭の上からかぶせられた。
「な、何をなさるのですか、空疎様」
「いくら神産巣日とはいえ、濡れたままで会うのは礼を失するだろう」
 と、空疎尊は荒々しく布の上から詞紀の髪をまぜっかえす。
「そ、それはそうですが、これはいくらなんでも、乱暴ではありませんか……!」
「水遊びに興じていた貴様が、儀式を遅らせるからだ」
「み、水遊び……、禊をしていたつもりです」
 と、言い返したものの、水面でつま先を動かして浮かんでいたり、無心になるはずだのに過ぎたことを思い返したり、禊と呼べる行為だったかどうかだんだん疑わしくなってきた。
 反省して、うつむいたまま空疎尊のなすがままにされていると、今度は彼の手の動きが止まった。
 目線を上げて確認すると、くちゃくちゃになった布の開いたところから、彼がじっと見守る目と目が合った。
「急におとなしくなったな、詞紀。どうした」
「はい……空疎様の仰る通りのような気がして」
「馬鹿正直と言おうか、素直と言おうか」
 唇の端を歪めて、空疎尊が微笑する。
「素直と仰って下さい」
 咎めるようにして言い返すと、かぶっている布をさらに開かれて、相手の腕が背中を支えた。同時に顔が近づいてきて、あわや再び唇が触れようとした時、
「……儀式が近いゆえ、くちづけはお預けだ」
「私は犬ではありません」
 近い距離にある唇と唇が動くと、互いの息がその唇にかかって、むしろくちづけをされるよりも詞紀は思い乱れる。
 しばらく視線を交わしている二人だったが、咳払いを一つ聞いて、押し戻したように体は離れた。
「玉依姫、空疎尊。そなた達は私に見せつけるために、幽世へと参ったのか」
「ち、違います。申し訳ございません、神産巣日様」
「……空気を読め、神産巣日」
「空疎様……! 早く儀式を始めましょう!」
 合わぬ二人の仲介は疲れるものである。詞紀が先を急がせた時、空疎尊が意地悪く笑って言い返した。
「遅くなった原因は、どこの誰だ」
「……はい、私です」
 肩を落として認めざるを得なかった。
 元々空気を読むことが苦手な神産巣日神は、脇役を装って満足そうに頷いている。――「仲よきことは素晴らしきかな」
 そして儀式を行なう広い場所へ移動しながら、
「早く黄泉へ来ぬか、高御産巣日」
 痺れを切らしたように呟いた。
 詞紀は空疎尊と顔を見合わせてから、二人肩を並べて神産巣日神の後ろに続くのだった。