3.背中を流して
独特の匂いのする湯が張られた湯ぶねの中で、足を伸ばして背伸びをすると、すぐにでも寝入ってしまいそうな心地よさがあった。
大した立ち回りはしていないのに、温泉に入るとやはり疲れていたのだと実感する。
詞紀の【剣】を壊すために季封を出てから、始めの宿泊である。同じ宿にうっとうしい二人組がいるのだけれど、部屋ごとの風呂で顔を合わせる気遣いはないから、気にしないでいられるのがありがたい。
宿泊した最初の夜こそ、同じ風呂に浸かった詞紀は、今夜は首を横に振って断ってきた。(もちろん笑顔を見せてのことだけれど)
「惜しいねえ。姫さんの体、もうちょっと見たかったんだが」
体を伸ばしながら独り言を言った。
「それは何故ですか」
「何故って、きれいな体をしてるからに決まって……、うおっ!?」
勢い、ぺらぺらと答えてしまってから、一人で湯ぶねを使っていることに気づき、弾かれて後ろを振り返った。
湯女のように白い小袖を身につけた詞紀が胡土前を見つめて立っている。その頬がほんのりと薔薇色に見えるのは、温泉の湯気に当たったのか、どうか――。
「胡土前様も、独り言をなさるのですね。それとも旅で気が緩んでいるからでしょうか」
「あー、いや、そんなことより、やっぱりいっしょに入る気になったのか、姫さん」
「いえ……あ、でも、二人でこんなところにいるのですから、半分当たり、というところでしょうか」
首をかしげてそう言うと、湯ぶねの浸かる胡土前の後ろへと近づいてきて、膝をついた。
「お背中を流させてください」
「お、おう」
断る理由もないから、彼はためらいつつも頷いて、温泉から出てきた。そして岩場に、温泉を背にして腰を下ろす。
詞紀はその背に回って、彼の背中を丁寧に布で拭いてから、盥に汲んだ湯をその背中にかけた。一回では済まず、二回、三回と。
胡土前は彼女のなすがままにさせておきながら、ふと顎を上に向けた。露天となっているそこからは、春の霞みがかかったように、星がぼんやりと光を鈍らせている。
「気持ちいいですか、胡土前様」
「ああ。あんたに背中を流してもらえるなんて、最高だな」
「あなたの妻ですから」
恥じらうように、語尾が掻き消えた。
何もなければ、彼女を抱き寄せて飽きるほどに唇を奪ってやるのに。
今、そうしてしまったら、胸の内に立てた誓いが嘘になる。詞紀が関わる事柄に、もはや嘘を交じらせたくはなかった。
「明日から、また旅が始まるな」
「はい」
「辛くはないか」
「はい。私の代でこの宿命が終わるのでしたら、この身を犠牲にしても終わらせたいのです」
――もしも、今自分にこの旅を続けることへの迷いがあったとしたら、彼女のその言葉で迷いは吹っ切られたはずだ。
「よし。じゃ、もう一回浸かって、出るか」
と、岩場から立ち上がって、詞紀へと振り返ると、彼女は丸くした目を胡土前の全身を上から下へと移動させてから、今度こそ顔をのぼせたように真っ赤にして両袖で隠した。
何故忘れていたのか分からないが、今まで胡土前は温泉に浸かっていて、何も身にまとっていないのを思い出し、彼は慌てて湯ぶねへと戻った。
袖で視界を遮りながら、詞紀がそそくさと立ち去っていくのを、胡土前は溜息をつきつつ見守った。