願いが一つ叶うなら、
蒸し暑い夜だった。
涼むために夜の散歩としようと、二人で庭へ下りたが、歩いているとじっとりと額から汗が流れた。
「……見てください、姫様! 空がとてもきれいですよ!」
先を行く秋房が、ふと空を見上げて、嬉しそうに振り返った。その耳たぶを、手を持ち上げ軽く引っ張りながら、
「秋房、敬語」
「あ、ああ! すいません、すいません!」
強く引っ張ったつもりではないのに、秋房はいつも大げさだ。そう思うと腹を立てたことも馬鹿馬鹿しくなって、詞紀は笑みをこぼした。
それから顎を上げて、秋房が指差した空を見ると、星の河とはよく云ったもので、流れるように数えきれない星が瞬いている。
「どれが織女で、どれが彦星かしら」
大陸から伝わる物語は、季封のような山深い場所にまで浸透している。というか、人は皆美しい物語が好きなのだ。一人が知れば誰かに教えたいと思うのは、万人が共通しているのだろう。
「今日は晴れているから会えるけど、雨が降ると逢瀬はまた一年延ばされるんですよね」
夫婦となったのに敬語はなかなか直らないけど、今夜は空で二人の男女が会えた幸せな日なのだから、今は訂正せずに星空を見上げていた。
「でも、一年に一度しか会えないなんて悲しいわ。私はそうではなくてよかった」
呟いて、秋房の腕を捕らえて、自分の側へ引き寄せた。息遣いも聞こえる、こんなに近い距離で毎日いっしょに過ごせるのだから、天女でなくてよかったと思う。
終わらないと信じていた二人の冬は明けて、春を終え、こうして夏を迎えている。これから冬は悲しいものではなく、愛する人と過ごす季節の一つになることがとても嬉しかった。
「……詞紀は、一年に一つ、願いが叶うとしたら何を願う?」
いっしょに空を見上げていた秋房が、その姿のまま独り言のように聞いた。
「一つ? というと、難しいわ。私はわがままな人間なのかしら」
「詞紀はそれでいいよ」
秋房が顔をこちらへと向けた。やさしい笑みだった。胸の奥が一つ高鳴った。
「詞紀はそれでいい。俺の一つの願いは、詞紀がずっと笑っていられることだから。そのために、なんでもする」
思わず彼の腕に添えた手に、力が入った。
秋房は昔からそうだった。やさしくて、詞紀のために自分を犠牲にする。他人から愛されることはとても嬉しいけれど、それに甘んじてしまいそうで、詞紀はとても怖い。
「……だったら、まずは」
涙でかすれそうな声を絞り出して、何事もないように笑って答えた。
「二人の時は敬語をやめて、それからちゃんと名前で呼んでくれるところから始めなくちゃ」
「……っあぅ……す、すみません」
秋房は見るからに肩を落として呟いた。詞紀は、嬉し涙が浮かんだのを忘れるように、声を上げて笑った。
守ってくれることは嬉しいけれど、夫婦の契りを交わした後は、対等の立場でいたい。この幸せを守ってくれる秋房を、支えられるようになりたい。
そう願いながら再び空へ視線を上げた時、ひときわ強く輝く星が視界に入った。それが織女星だと、確かに感じた。
(2014/07/09)