ヒトの業は限りなく、

 刃が空を斬る、と云うことがあるが、本当に空を斬るように満天の星々目がけて飛んでいく。
 足が地を離れると不安になる心持ちは、いつまでも慣れない。見下ろすと、季封の村はそれと分からないぐらい小さくなっていて、ただ家々の小さな灯りが見えるだけだ。
 風を操る恋人の背に回した両腕に力をこめつつ、顎をそびやかすように上空を見据えた。
 しだいに雲に隠れて見えなくなる下界の村とは反対に、きらめく星空も輝く月も、一向近づいた気にならなかった。
 空疎尊の力を借りて、星くずの河と月に近づこうという望みは、まだ叶えられそうにない。




 ――そもそも何故そのような大それたことになったかというと、夕刻過ぎに遠出から戻ってきて、ふと見上げた夜空が溜息をつくほど美しかったからだ。
 藍色の空に星がいっぱいにきらめき、月は静かな光を地上へ注いでいた。
 その時不意に、一度空疎尊の力で空を飛んだことを思い出し、
(あの月と星を、もっと間近で見ることは出来るのかしら)
 と、夢のようなことを考えたのは、おそらく星と月が惑わしたのだろう。
 春香殿に帰り、空疎尊と向かい合って夕餉を取っている時にその話をしたら、興味をそそられたように簾を押し上げて廊下へと出たのだった。
『貴様は、あの星に手を触れたいと望むのか、詞紀』
『そ、そのような思い上がったことは申していません。けれど、もっと近くに行ってみたいとは思われませんか?』
 詞紀は少女のように瞳を輝かせて、満天の星を見上げた。
『ならば試してみようか』
『はい?』
 と、振り向いたが、しっかりと体を押さえつけられて、恋人の顔を見ることは適わなかった。
 風が二人の周りを取り囲み、廊下につけていた足が浮き上がる。と、思う間もなく、二人の体が空へ舞い上がった。空疎尊の肩ごしから小さくなっていく春香殿と神謁殿が見えて、騒がしい声が「姫様」と呼んだ気がした。
 それらも一瞬の出来事になってしまうほど、早く、早く、二人は星と月を目指して飛んで行く。




 霧のような雲が視界から季封の村を隠し、何も見えなくなってから、やっと不安を覚えた。
「空疎様、もう、下ろしてください」
「何ゆえだ。まだ届きもせぬぞ」
「お力を使わせてしまって申し訳ありません。……でも、もうよいのです」
 彼の腕の中でぶるぶると震えてしまうのは、しだいに寒くなっていくせいだけではない。
 上昇していた体が止まって、今度は穏やかな風をまといながら、ゆっくりと下りていく。
「顔を上げろ」
 と、言われるまでもなく、空疎尊は片手で詞紀の頬を包んで、やさしく顔を上げさせる。
「人間とは、不思議なものよ、詞紀。満たされていると、さらに良いものへ手を伸ばそうとする。――空を飛ぶ鳥さえ、太陽な月に近づかぬというのに」
「本当に、そうですね。私も、空疎様のお力があれば、星空に届くものと思ってしまいました。星も月も、鳥が近づかないほど高いところにあるのですね」
 笑ったつもりなのに、片頬が引きつるように痛い。
 まるでその痛いところが分かるかのように、空疎尊は詞紀の頬を撫でた。
「我は嬉しかったぞ。貴様は、普段わがままさえ言わぬからな。不可能な願いというのも、たまにはよいものだな」
「……空疎様」
 咎めるような視線で彼を睨んだ。一方、二人の体はゆるやかに下りていって、雲を抜けて季封の村の灯りが見え始めた。そこでやっと詞紀は安心した。やはり、ヒトの住む場所は地上なのだ。そして、あの温かい灯がともる家々なのだ。
 もうすぐ春香殿の前の庭へ下り立つ。その直前に、詞紀はちょっとはにかんでから、言った。
「あの、今夜はよけいに力を使わせてしまったから、この後なんでも空疎様の仰る通りにいたします」
「……なんでも?」
 彼が少し首を傾けた。本当に意味が通じていないのか、それともとぼけているのか、判断できずに詞紀はもどかしい気持ちになった。「なんでも言われるままに」など、普段自分から言えない言葉なのに。
 その「なんでも」が何かと問われる前に(そもそも聞いてくるかも分からないけれど)、つま先が地面に着いた時に、両腕を空疎尊の首に回して、自分から口づけをした。
 二人の周りを取り巻く風がやんでいく。風の音がなくなってから、そっと瞼を開いて、唇を離した。
「なんでも、言う通りにするのであろう?」
 意地悪な口調で囁いて、再び口で口を塞がれる。痛みを感じるぐらいに唇を吸われて、また吸われて、呼吸さえ奪われる。何度目でさえ、頭の中心からとろけるような甘美な感覚にも慣れない。
 立つ力まで奪われたように、口が離れると詞紀は空疎尊の腕の中で脱力した。そのまま抱きかかえられて塗籠の部屋へ入っていく。――


 ――次の日の朝には甘くて痺れる疲れを感じるのだろうと予感して、蔀戸からもれる月の光を寝台からぼんやりと眺めていた。


(2014/07/03)