恋をしていた





 幽世の景色は変わりがない。そのために現世に戻りたいと、切に思った。
 体内で【オニ】だったものが蠢いているのが分かる。時々、苦しさのために膝をついて息を荒げた。
「詞紀。無理をするな」
 包むように抱きしめてくれる両腕があった。肩で息をしながら顔を向けると、空疎尊が同じように膝をついて同じ目線で見つめている。
「……空疎様。私は、このまま【オニ】に食われてしまうのでしょうか」
「貴様らしくもない。宇賀谷詞紀は、決意の固い女ではなかったか?」
 そう言われると、反論しようとして言葉が出てこない詞紀だった。【オニ】との戦いに入るよりもずっと前から、自分は負けず嫌いで強情だという自覚はあった。だからこそ生きる意志の揺らいでいる今の自分自身が歯がゆい。
 何かを言おうとすると、唇が震えて声に出来なくなる。心細い詞紀の肩を抱き寄せ、空疎尊が囁いた。
「……神無巣日が、戦おうとする決意を心に強く持っていれば、【オニ】を抑えることが出来ると言っていた。弱気になるな。……我のために、生きろ、詞紀」
 ――貴方のために。
 そう心の内で呟いて、彼の胸に頭を預けた。すると少しずつ不安が消えた。
 そして、生きることを諦めたためではない、冗談を言う口調で、空疎尊へ呟いた。
「もしも……のことがあったら、空疎様の手で殺してくださいね」
「残酷なことを言うのだな、貴様は」
「……【オニ】はあなたの仇ではありませんか。それと知らずに、私は自分の身に【オニ】を閉じ込めてしまった。風波様が私達を追いかけてくるのも、理解できるのです。私も、季封で亡くなった人を思うと【オニ】を許せない気持ちになるのですから」
 詞紀は斜めに顔を上げる。空疎尊は、眉間に皺を寄せた表情で詞紀を見つめている。
「でも、風波様に殺されるぐらいならば、あなたに殺されたいのです。……人形のように生きてきた私を、ずっと見守ってくださった、空疎様に」
「……だったら、今も人形であればよいものを」
 詞紀を抱きしめる腕に、いっそうの力をこめた。
「そういう時に限って、貴様は生き生きとして美しくなる。そんなにもこの世界は、貴様にとって重荷でしかないのか?」
「そのようなことは……、んっ」
 ……言い訳をしようとする唇を、相手の唇で塞がれた。奪うような強引な口づけをしてから、唇が離れる。
「おそらく我の罪は、弟のみを生かそうとしたことではない。……貴様に、八咫鴉の一族が【オニ】に滅ぼされたと明かさずに、婚約者として近づいたことだ」
「……何故、そんなことを」
 空疎尊の妻として生きる決意を、固めたというのに。
 不安になって恋人を見つめると、彼は苦い笑みを唇に浮かべた。
「そのような顔をするな。……貴様とて、自分を利用しようとする婚約者など望まないだろう?」
 ――いや、【玉依姫】として、カミの血を引く婚約者は必要だった。それは、空疎尊が言っていることと同じではないのだろうか。
「そして、自分を利用する者のために、自らの身に【オニ】を閉じ込めはしなかっただろう」
「それは……!」
「だが、我はそうする勇気がなかった。……貴様の側から離れることを恐れたのだ。きっとその時には、我が貴様の虜となっていたのだろうな、詞紀」
 それは、つまりこの旅路より前から、詞紀は彼に愛されていたということなのか。
 空疎尊の不遜な物言いに疲れ、苦手と思い、時には誤解して反発した。……そもそも、娘を産めばその娘に殺されて生涯を終えると思っていた詞紀に、異性からの愛は関心がなかった。
 せめて形だけでも、村の少女達のように異性との色恋に興味を持っていれば。もしかしたら彼の気持ちには気づいたのだろうか――?
 そこまで考えて、詞紀は泣きながら笑った。
「……馬鹿みたいなお話ですね。今は大切だと思う人を、ずっと傷つけてきたなんて。何故、空疎様はこんな女を選んだのですか」
「それは、カミも人も同じだ。……だからこそ、人の生きる世は醜くも、美しくもなるのではないか?」
 そう答える空疎尊に抱きしめられて、詞紀はその腕に手を置いて囁く。

「空疎様のおっしゃる美しい世を、ぜひ隣で見せてくださいませ」

 肯定の返事の代わりに、抱きしめる腕に力が増した。
 今だけは、体の中の【オニ】はその存在を表に出してはこなかった。


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