お伽話の姫君は王子の虚像を創造する。

 幽世はいつも静かで、執務の追われている最中、少し抜けて休んでいるのにはちょうどいいと思っていた。
 だがいつも静かだと雑念も頭に入ってくる。例えば季封では、小さな子供達が喧嘩するのを仲裁したり、秋房が胡土前を追いかけて押し掛け弟子になろうとしているのを微笑ましく眺めて、よけいなことは考えない。
 そういう雑念がふと頭に入ってくると、休もうにも休めず、もやもやと同じことを考え続けてしまう。
 かといって戻ろうとしても、こんな気持ちのまま恋人と会わす顔もなく、詞紀は同じところを行き来していた。
「貴様は何をしている」
 呆れた声をかけられて、詞紀は肩をゆすって振り返った。
「空疎様……、いいえ、何も」
「何もないようには見えなかったが。……大方、また何かくだらぬ迷い事でもしているのだろう」
 こうして言い当ててくることが多いのは、よほど詞紀が分かりやすい行動を取っているからなのか、それとも空疎尊が鋭いのか。――詞紀は後者であると思うことにした。
「まあ、その、そういうところです」
「それで、何を悩んでいた」
「いいえ、空疎様にお聞かせするような、大げさなものではありません。取るに足らぬことです」
「ほう? 我が妻は夫に隠し事をするのか。では、我が貴様に隠し事をしても文句はあるまいな?」
 うっ、と答えに詰まって、詞紀はうつむいた。自分から気持ちを隠したことは否定できないが、かといって彼に秘密があることもなんだか気になる。
 詞紀の答えを待っている空疎尊の視線に耐えられず、諦めて口を開いた。
「……空疎様。風波様には、許婚者がいらっしゃったんですよね」
「ああ……その通りだが。それが今、どう関係がある」
 いささか彼も面食らったようだ。まさかつい先頃まで戦っていた弟の名前が出ることは、予想していなかったのだろう。
「風波様の許婚者は有力な家のお方だとか」
「ああ。そうだった」
「その……でしたら、空疎様にもそのような方がいらっしゃることも、有り得る話なのでしょうね」
「……何?」
 彼の目が不思議な物を見るように開いた。
「貴様は、何を言っているのだ」
「ですから、その」
 詞紀はふっと顔をそらして、空疎尊の視線から逃れる。彼の責める目はとても鋭くて、見つめられると消え入りそうな気持になるのだった。
「私よりもずっと相応しい方がいらっしゃったのではないかと思って。そうしたら、じっとしていられなくて」
「詞紀」
 強い口調で名を呼ばれた。振り返ろうとする前に、頬を両手で包まれ、無理やり正面を向けられた。
「我と弟の戦いを見る、あの強い目はどうした。《オニ》を体内で打ち破った、貴様の強い心はどうした?」
 真っ直ぐに見据える空疎尊の視線が眩しい。しかし顔をそらすことはままならない。
「己を信じられないなら、まずは我を信じろ。――我に、貴様の言うようなものはいなかった。貴様が最初で最後の妻だ、詞紀」
 そう告げる彼の視線は揺るがず詞紀に注がれる。
 愛している、なのにほんの少しの疑いを抱いてしまった自分が悔しくて涙があふれた。
 この世を創った神産巣日神の前で、詞紀への愛を誓った夫なのに。その彼の妻であることを誓った自分なのに。
 両頬を包む手が離れた。
 足の力が急に抜けて、前に倒れそうになる体を、空疎尊の腕が支えた。やさしく肩を抱いてくれるその人に、些細な疑いをかけてしまったのだ。
「それにしても」
 背中を撫でながら空疎尊は微かに笑った。
「ありもしない存在に妬くとは、貴様らしいな、詞紀」
「どういうことですか」
 と、顔を上げて睨んだ目に咎めるほどの力はなく、すぐに空疎尊のやさしい目元につられて、詞紀は笑顔になった。
 静かな幽世で、二人の溜息のような笑い声だけがひっそり響いた。

(2014/06/05)