明日を運ぶ風

 鳥の鳴く声がする。目を開けると、眩しい光が差しこんできて、思わず目を細めた。
 幽世から季封へと戻る旅の途中である。仲間達や村の人々に伝えなければならないことを、たくさん用意している。
 その一方で、今まで二人きりになる時間を多く取れなかったのもあって、長い旅路を楽しんでいた。
 ――戦いの日々だった頃、季封から幽世の道は辛いものでしかなく、長く感じたものだった。しかしこの旅はいつの間にか道の半ばを過ぎていて、信濃国に入るのはあと少しといったところだ。
 桜咲く季節とはいえ、野営する時刻は肌寒い。自分の外套を体に巻きつけるようにして夜を過ごし、また幾度目かの日が昇ってきたのだ。
「……空疎様?」
 身を起こして恋人の眠っていたところへ目をやると、外套だけ残して姿は見えなかった。
(どちらか、お散歩にでも行っているのかしら)
 と、思ってみても、目覚めたら愛しい人の顔を一番に見てきた昨日までのことがあるから、顔を見られないと不安な気持ちになる。
 立ち上がって、どこに行ったのかと辺りを見回したが、季封から出たのもつい最近である詞紀は地理に不案内で、空疎尊が行きそうなところがどこにあるのか見当もつかなかった。
 鳥の鳴く声は、途切れずに聞こえる。
(どこかでたくさんの鳥が集まっているような声が)
 そう考えた時、不意にやわらかな風が背中を押した。足は自然とその風の流れへと運ぶ。
(空疎様の、風……)
 戦っている時の彼の力は鋭く敵を裂くけれど、詞紀のために力を使う時、その風はとてもあたたかく、心地よいことを知っている。
 その風が背を押しているとなると、恋人が居場所を教えてくれているのだろう。詞紀が疑う余地はなかった。
 果たして導かれるままに歩いていくと、山桜が白く咲く下で、空疎尊は一本の桜の木に背を預けていた。その周りにはきれいな羽の小鳥達が飛び回り、時に桜の枝に留まっている。
「起きたのか、詞紀。遅かったな」
 と、唇の端を引き上げて笑った空疎尊の右手には、一羽小鳥が留まってさえずっている。
「申し訳ありません……季封には、今日中に着くでしょうか」
「冗談だ」
「は?」
「遅れてはおらぬ。我も起きたばかりであるからな。……それから、季封はもう目の前ゆえ案ずるな。こやつらも貴様の帰還を楽しみにしているようだ」
 指に留めた小鳥を空へ放った。その後を追おうとするのか、それとも羽ばたきの音に驚いたのか、木々に留まった小鳥も一斉に空へ飛び立つ。目で彼らを追うと、昇ったばかりの太陽が視界に入って、手をかざした。
 視界がちかちかして目の奥がしみる。何度かまばたきを繰り返してから、やっと眩しさから解放されると、皮肉っぽく唇の端に笑みをためた空疎尊を見た。
「あの、何か仰りたいことでもあるのですか、空疎様」
「日光を避ける貴様が子供のようだな」
「で、では、眩しいのも目が痛いのも我慢しろと仰るのですか……!」
 目を剥いて反論すると、逆に相手はくっくっと笑みこぼした。
「他愛のないことで駄々をこねる姿も、初めて見る」
「そのように、子供扱い……っ!」
 勢いでさらに言い返そうとして、はっと我に返った。
 戦いが終わる前、自分は許婚者である空疎尊に、こんなあられもない内面を見せたことはなかった。むしろ《玉依姫》となった時から、幼なじみの二人にさえも。
 彼が、ただ子孫を残すための種でしかなかったからだ。気持ちなど見せる必要はないと思っていた。それに、《玉依姫》の掟では、娘が七つになった時、母は娘の手で殺されるのだから。
 しかし戦いは終わった。《剣》は残っているけれど、伝承の儀式を変えていこう――つまり母が娘に殺されることのないように――と、二人で話している。詞紀の命が続く限り、空疎尊と、いつか生まれてくるであろう子と、共に生きていきたいという望みを持った。
 沈黙が落ちたことに気が付いて、はっと顔を上げた時、とてもやさしい笑顔が視界に入ってきて、心臓が締め付けられるように痛くなった。――


 ――と、そう感じた瞬間、掴まれた腕を引き寄せられて、彼の腕の中で抱きしめられた。
 長い戦いの間、幾度か同じことをされたのに、強く抱きしめられる恍惚と緊張は未だ消えない。
 空疎尊の胸に手を重ねて、頬を置くと、その温もりにゆだねるように目を閉じた。瞼の裏に、直前に見たやさしい笑顔がはっきりと浮かんだ。
 二人を包む風は、とてもあたたくてやわらかかった。

(2014/05/24)

>> BACK

Designed by TENKIYA