うつくしいもの

 一度鏡面を覗いてから、悲鳴を上げて床に叩きつけた。
 幽世は、現世と死後の世界の中間に位置し、現世のようなざわつきは滅多にない。そのため自分の悲鳴も、響くように自身の耳に響いた。
 《鏡》というのは、化生の物の正体をさらすと云う。ということは今映った醜いものが自分ということなのか? ――人の形にも見えない、醜悪な姿が。
 叩き落とした手鏡から離れて、宛がわれた部屋の隅に伏して震える肩に、あたたかい手が置かれた。
 恐る恐る顔を上げると、驚いたように目を開いて、恋人が傍らに寄り添っている。
「大丈夫か、詞紀」
「……はい。でも、……鏡を、この部屋から、鏡を隠して下さいませんか」
 相手はちょっと眉間に皺を寄せたが、すぐに言葉の意味を察したらしく、
「ああ、すぐに全て引き取らせよう。見なければよい、というわけにはいくまい」
 ――目が届くところにあれば、女性という性質ゆえ、ふと鏡を見てしまうのである。
 空疎尊が話を通すと、神産巣日神の側仕えがやって来て、室内にある鏡を全て持っていってくれた。それだけで、醜い姿を見なくて済むと思うと気が楽になる。
「……空疎様、空疎様の目からご覧になって、私は私のままですか? 空疎様の知っていらっしゃる、私の姿のままですか」
 多少気楽になって、身を起こしても、詞紀は不安を覚えながら恋人に訊いた。
「変わるも何も、元より貴様は貴様のままだ、詞紀。我ごときを救うために、《オニ》を己が内へと封じた、愚かな女だ」
 そう言いながら、空疎尊は詞紀の体を抱き寄せた。彼を意識し始めた心には嬉しい行為でも、今は喜んでいる場合ではなかった。この体には恐ろしい《オニ》が宿っているのだ。いつ暴走して、守りたい人を傷つけるかもしれない、恐ろしいものがいる。
 けれど、押し返そうとしても、彼の手はしっかりと詞紀の肩を捕らえて離れなかった。
「空疎様……、空疎様、離して下さい。私が意識を失ったら、きっとあなたを殺してしまう」
「我が貴様ごときに負けるものか」
 耳元で、彼の声が低く笑った。
「だから、気にせずこのままでいればよい。《剣》も《鏡》も、全ては創生の神々が作ったもの。神産巣日に任せればよい」
「……けれど、それを利用したのは」
「その責任を取る覚悟は、とうに出来ている。だが貴様は、……《玉依姫》は充分、いや、それ以上に苦しんできた。ゆえに、詞紀、貴様は何もしなくてよいのだ。神産巣日が、ヒトや国津神の力も必要だといえば、我が力を尽くす」
 肩を抱く手に力が入った。低い笑みが聞こえた位置で、「それは、貴様のためだ」と囁く声がした。体の中が熱くなった。
(私も、《オニ》には負けません、空疎様)
 愛する人が、自分を守るために戦おうとしている。
 そう思った時、幼なじみ達、そして季封で共に戦った胡土前、秋篠古嗣が思い浮かんで、自分を守ってくれる人のために屈するわけにはいかないのだと気付いた。
 特に、全てを諦めた雪の日、詞紀の手を取って逃げようとした秋房と、自分を殺して逃げろと言った智則の気持ちに、今気づいた。
(……戻らなければ。季封に、みんなが待つ場所に。――空疎様といっしょに)
 彼の背中に腕を回して、詞紀を初めて「助けて」と訴えた。「当然だ」という答えは、すぐに返ってきた。触れるだけの、やさしい口づけといっしょに――。

(2014/04/29)