あんなにも空は広かったか?

 幽世へ通じる富士の裾野から、信濃までの距離は思ったよりも長い。
 それでも歩いている間、苦痛は一切感じなかった。二度目の幽世の訪問の際に比べれば、ずっと気楽なものだった。
 それというのが、自分の中に封じた《オニ》を鎮めることに成功し、主を失った幽世の立て直しも軌道に乗って、ようやく季封へ帰ることができるからだ。
 早く村の皆と会いたいと思う気持ちはあったが、急ぐ旅でもない。ゆっくりと季封への道を埋めていく。
「空疎様。先ほどから空を見ておられますが……、何か心配でも?」
 先を行く恋人の背を見つめ、首をかしげて詞紀が訊ねた。
「……うん? ああ、いや、なんでもない」
 一度、こちらへ視線をやったが、空疎尊は軽く首を横に振った。
 しかし、ちょっと間を置いて、思い直したように苦笑する声で呟く。
「貴様には隠し事をせぬと誓ったのだったな」
「……あ、いいえ、どうしても仰りたくなければ、強いてお聞きしませんから」
「ほう。では、夫の考えていることを、聞きたくないと言うのか?」
 振り返った顔は少々意地悪くほくそ笑んでいる。
 「うう」と言葉に詰まって、しばらくうつむいてから、
「……教えていただきたい、です」
 と、もらすように返事をした。大切な人が何か悩んでいるのだったら、いっしょに考えていきたいと思う女心だ。
 それに、そうやってもったいぶっているから、何か重要なことなのだろうと期待したが、
「といっても、大したことではない」
 空疎尊が他愛ない調子で口を開いたので、詞紀は拍子抜けしてしまった。一方でほっとした気にもなる。もしも大したことだったとしたら、それまで大切な人が悩んでいたのに気付かなかったことになるからだ。
「それで、何をお考えだったのですか、空疎様」
「……ああ、それはな、……その、幽世とこの世界は別のものだろう?」
「ええ、そうですね」
「随分と長いこと、幽世にいたせいかもしれないが、空が随分と広く見えるのだ」
「空が……」
 思わず詞紀もつられて空を見上げた。幽世からの入口から出てきた直後、太陽の眩しさを心地よく感じて空を見たが、改めて空疎尊に言われると、空がどこまでも広がっていることを新鮮に思えた。
「……私達には、冬が長く感じられたせいかもしれません。雪が降ると、雲が空を敷き詰めて、なんだか窮屈な気がしますから」
「ああ、そうか。そうだったな、我が空を見上げたのは、真冬の、雪がちらつく空であった」


 ――だが、もう冬は明けた。
 二人が幽世に滞在している間に、現世の時間はいくらか過ぎているのかもしれない。詞紀が愛する、あたたかい春は、もう迫っている。
「私は幸せです。空疎様と二人で、あの辛かった冬を乗り越えたのですから」
 そう言って空疎尊の傍らに寄り添い、その腕に腕を絡ませ、手を握った。
「当然ではないか。我が側にいるのだからな。……幸福なのは、貴様という女と添い遂げる我の方だ」
 胸の奥が熱くなる。言葉で答える代わりに、頭を彼の腕に寄せて微笑み、握る手に力を込めた。
(この世界が、いつまでも美しくありますように)
 二人が感嘆した空は、変わらず青く澄み、翼を広げて鳥が渡っていった。

(2013/11/20)
【title:反転コンタクト(http://nanos.jp/contact/)】