一口分の苦悩

 朝の食事の最中、食膳に食べかけのおかずと汁物を残して、智則が立ち上がった。
 これから信濃の国府に行くことを知っているから、急いでいることは知っていたが、
「智則、おいしくなかった?」
 毎日の食事は詞紀が作っている。智則が食事を食べきらないことは今に始まったことではないが、残しているのを見ると不安になるのも女心だった。
「いや、おいしいよ。詞紀の作るものは、この世で最もおいしいと思っている」
 と、答える表情は穏やかなものだった。
 ――だったら、と食い下がろうとしたが、智則は時間を気にするように、
「早く出立しなければ、帰ってくるのが遅れる。だから、もう行くよ、詞紀。……ああ、見送りはいらない」
 部屋を出る間際、食事を中断して立ち上がる詞紀へ振り返り、智則が制した。
「気を付けて、智則」
 そう声をかけて、その場から見送ってから、もう一度食膳の前に座り直した。
 目の前には彼の残した食事がある。一口分、残っているのを見るのも寂しい。けれど返す返すも、彼が食事を残すのは今だけの話ではない。
(……そういえば、昔から食べることへの興味が薄かったわ)
 他に興味のあることが出来ると、一日中それにかかりきりになってしまう子供だった。幼い頃の性質は、大人になっても抜けないということか。
(食べるものに興味を持ってもらえばいいのかしら。でも、どうしたら……)
 米を口に含んで、何度も噛みしめながら、詞紀は考えを巡らす。その間、自分で作った料理の味も、全く味わえていなかった。他に考え事が出来ると食事どころではないのは彼女も同じだったが、それに自分では気づいてはいないのだった。



 日が暮れて、智則は予定を立てた通りに信濃の国府から帰ってきた。
 出立の際、見送りはいらないと言われていたが、詞紀は出迎えのために神謁殿までやって来た。
「無事でよかった、智則。国府の方に、変わりはない?」
「ああ。いつもより賑やかなほどだった。……信濃守様が、今度市を立てると言っていた。その時は二人で行こう、詞紀」
「ええ、楽しみね。……疲れたでしょう、食事の用意はもう出来ているから」
 彼の背を押すように、春香殿へ共に歩いていく。
 その間、智則に語りかけるのは、
「昼間、子供達と山菜を採るために、山へ行ってきたの。……覚えている? 母様や秋房といっしょに、山であけびを採りに行ったこと」
「覚えているよ。あの時食べたのは、とてもおいしかった」
 昔を思い出した智則の顔はとてもやさしくて、自分から振った話なのに詞紀は思わず先を続けるのを忘れて見守った。
 すぐに我に返り、今夜はその収穫した山菜で食事を作ったのだと言った。
 といっても、普段の食事は大抵、季封の民から分けてもらった野菜や、山で採る山菜などである。
 しかし今日は、どのように作って、どこが苦労したのかを、さりげなく食事の説明として会話の中に入れた。頭の良い智則は、そういう過程に興味を引くと思ったのだった。
 食事を用意している部屋へ入って、向かい合って座った。疲れがあったのか、智則は先に汁物へと箸をつけた。
 一方、詞紀は彼が興味を引くようにと、さりげなくそれぞれの肴について話す。そう気を配っていることを悟られないように、と注意していたつもりだが、茸を焼いたものを口につけてから、智則が箸を置いて言った。
「……詞紀。済まない」
「……え?」
 急に謝罪をされて、彼女は瞬きを繰り返した。
「どうしたの、智則?」
「朝のことだ。急いでいたとはいえ、詞紀が作った食事を残してしまった。あの後、歩きながらずっと引っかかっていたんだ」
「そう、だったの」
 詞紀はほっと息をついた。それから、ほっとした自分に、ちょっと嫌気が差した。まるで自分が正しかったと思ってしまったみたいで。……智則は、こうして謝っているというのに。
 彼がうつむいているのを見て、ちょっと首を横に振ってから、詞紀は何事もないように朗らかに言った。
「いいのよ、智則。顔を上げて。食事が冷めてしまうから。……それに、智則の気持ちは分かっているの。だって、私の元に早く帰ってくるために、急いで出立したのだもの」
 詞紀が最後に付け加えた時、はっと顔を上げた智則は、米を盛った椀と箸を取り上げて、無言で掻きこんだ。
(……なんだか、よけいな一言を口にしてしまったかも)
 居心地悪く、おかずを箸でつまみながら、智則の様子を窺がう。自分で口にしたのが、なんだか妙に恥ずかしくなった。
 こういう感じの、同じ気持ちというのを期待していたわけではないが、分かり合っただけでも十分だと言い聞かせて、夜の食事は進んでいった。

(2013/11/16)