.




 何ものかの出て行く音がして、胡土前はふと目を開けた。
 何ものか、といっても、この小屋を共に使っているのはもう一人しかいない。そっと立ち上がって、出て行った後を追って外に出ると、月明かりが反射する雪に足跡が続いているのを見た。
 続けてその足跡を踏んで、歩いていくと、その痕跡は途切れて、小柄な後ろ姿が丘から遠くを眺めているのを見つけた。
「……逃げたんじゃないのか、詞紀」
 弾かれたように振り返る彼女の顔が、驚きを表している。
「逃げるわけ、ありません。胡土前様のお力になりたいのに」
 ――自惚れというわけではないが、そんなことは理解していた。
 ただ、逃げても彼女を恨む筋はない。《オニ》となった綾読を助けるという私的な目的のために、詞紀を巻き込んでしまったのは自分だから。
 だから彼女が逃げても追う気はなかった。けれどそうなるとしたら、仕方ないと諦めつつ、何かを失望していたところだった。
「季封のことが心配か」
 雪を踏んで彼女の横に立ち、遠く季封がある方向へと顔を向けた。夜の闇であって、月明かりに雪と隣の彼女しか見えない。
「不安ですけど……、空疎様や幻灯火様、秋房と智則がいますから。都の軍が襲ったとしても、村の皆を守ってくださいます」
 自分を安心させるような口調で詞紀が言った。だが言い終えてから、彼女は両腕を抱いて、微かに震えた。おそらく、自分で言葉にしながら、万一の場合を想像してしまったのだ。
 大蛇一族の英雄と称されていたとはいえ、一人の戦士でしかなかった胡土前には想像するしかないが、村を束ねる長である詞紀はそれだけ長としての資格が備わっているのだろう。
 だからこそ、実現するかどうかも分からぬ曖昧な賭けに、彼女を付き合わせている今を悔やむ。
「……詞紀。帰ってもいい。俺が目を瞑っていれば、綾読もあんたを追うことはしない」
「胡土前様……」
 横で詞紀が絶望したような、泣きそうな表情になった。
「私が足手まといですか。確かに、私は胡土前様より剣の腕は劣るかもしれません。ですが、精一杯戦うつもりです。ですから、帰ってもよいなんて、そんなこと仰らないでください」
 瞳を濡らしながら、胡土前の胸にすがって、頭を何度も横に振る。
(こういう姿も見せるのか)
 と、胡土前は、抱きしめたい衝動に駈られた。初めて出会った時の、人形のような澄ました顔とは別人だ。《玉依姫》という特殊な立場が、詞紀を人形のようにしてしまったのだろう。――そう思うと、詞紀が哀れに思う。
「……足手まといのわけ、ねえだろ? あんたは、おそらく俺の次に強え」
 抱きしめたい気持ちを抑えて、詞紀に好きなままにさせながら胡土前は呟く。
「俺の勝手な思いのために、あんたを縛りつけていることが嫌になった」
「ならば、もうそのような罪悪感を抱く必要はありません、胡土前様」
 彼の胸に顔を押し当てていた詞紀が、涙で濡れる瞳を上げた。その目は笑みを湛えている。
「もはや、私がここにいるのは、私の意志ですから」
 ――大蛇一族の英雄と謳われた胡土前は、他人の命を奪うことはあっても奪われることはないと自負していた。
 だが、この時、彼は確かに奪われた。それが心なのか、理性なのかは分からない。
 もしも人を恋い慕う心を持つことで、命が宿るものならば、胡土前はこの時はっきり命を奪われたと自覚したのだった。
 細かい雪は、静かに静かに舞い落ちる。