幻月の夜




 季封の夜の空に、月は霞をかけてぼんやりとした光で地上を照らしている。
 その月の光は底まで届かず、庭を彩る花々は暗闇に沈んだ。
 そういう景色を寄り添って眺めていると、ふと顎を指先に捕らえられ、上を向くのと同時に唇が触れ合った。
「……どうしたのですか、古嗣様」
 唇が離れてから、詞紀が首をかしげて訊ねる。夜の闇でも間近に迫った顔はよく見えた。古嗣は目元に笑みをためて、
「お願いがあるんだ、詞紀」
 と、言った。
「お願い? 何だか、古嗣様のお願いは何度も聞いているような気がします」
「言うようになったね、お姫様」
 彼は可笑しげに笑い声を上げた。
「古嗣様の妻ですから」
 そう答えてから、いつかの夜を思い出して詞紀は頬を染める。刻まれた証のために、体が疼いた。
「……それで、お願いとは何ですか」
 ごまかすように、先を促す。古嗣はじっと詞紀を見つめてから、いつになく真面目な顔になって口を開いた。
「僕より先に死なないで欲しい。ずっと、側で見守っていてくれ、詞紀」
 ぽかんと口を開いて、彼の顔に穴が開くほど凝視していた詞紀である。
 ――自分のために、命を懸けて秘術を使い、寿命を縮めようとした本人の言葉とは思えない。しかしそれを薄情とは思わず、詞紀は何だか可笑しい気持ちになって、ふっと微笑をこぼした。
「やっぱり、勝手なお願いだったかな?」
「はい、――でも」
 猿臂を伸ばして、自分から唇を近づけていく。目を閉じて、舌を絡ませるような口づけをしてから、口を離した。
「私も、古嗣様が先に逝ってしまうのは嫌なのです。ですから、こうしましょう。二人とも精一杯生きる、と。悔いが残らない生を送ったら、どちらが先に逝っても恨み言はなしですよ」
「……ああ、そうだね」
 古嗣が困ったように微笑して呟く。
「参ったな、まるでお姫様に守られているみたいで、ふがいない」
 情けなくもそう呟くのとは反対に、詞紀は強く彼の胸に抱き寄せられる。二人の体が廊下の上に倒れて、目を上げると古嗣の顔があった。
「……古嗣様」
「悔いが残らないように……君を愛し続けるよ、詞紀」
 再び唇が重なった時、探るような彼の手が詞紀の召し物の裾に入ってきた。途端に生まれた熱のために、何も考えられず、初めての夜のように詞紀は彼のなすがままに身を任せるのだった。




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