一人、森の中を歩いている。
いっしょについて来ていたお兄さん達は、なんだか難しい話をしていて、おもしろくなくて一人で山の奥へ奥へと来たのだった。
というか少女の探す人は、ただ一人だ。
けれどいくら村や、その周りを探しても姿が見当たらず、しかも森の中は薄暗く、さびしくて、少女は泣くのを抑えることはできなかった。
「母様……、母様ぁ……どこぉ?」
袖で顔をごしごしとぬぐいながら、とぼとぼと歩き続ける。心細くなると、疲れを感じるのも早くて、ぴたりと足を止めてしゃがみこんだ。
「母様……母様に会いたい……」
「――卯紀様は、しばらくご用があって季封を離れているんですよ、詞紀」
やさしい声を聞いて、濡れる目を上げると、懐紙を差し出している男の人が、膝をついて見守っていた。
「……お出かけしてるの? 母様」
「はい。しばらくしたら、お帰りになられる予定です。きっと卯紀様も、詞紀と早く会いたがっておられますよ」
「しばらくって、いつ?」
「日が暮れる頃には。ですから、卯紀様より先に宮殿へお戻り下さい」
彼が手を出してきた。ちょっと戸惑ったけれど、その笑った顔がやさしくて、幼い心にも信じられるものだったから、詞紀はそっと小さな手で彼の人差し指を握った。
少女は、男の人の手に引かれて歩きながら、彼の顔を見上げて訊ねる。
「お兄さんは、なんていうの?」
「私のことは、智則とお呼び下さい」
「とものり? 泣きむしの智則とおなじ名まえね」
詞紀は幼なじみのよく泣く顔を思い出して、きゃっきゃっと笑い声を上げた。
「その友達は、詞紀にとって頼りないですか。泣いてばかりで困らせているんですか?」
「ううん、智則は私がまもってあげるの。でもたよりなくなんかない。だって、とてもあたまがいいのよ」
「もしもその友達が、詞紀をお嫁さんにしたいと思っていたら?」
「およめさん? ……あっ! 秋房と智則と、母様といっしょに、おままごとで遊ぶって約束してたの!」
子供の約束を思い出して、今度は小さな詞紀が智則の前に立って引っ張っていく。
話をしている間に森を抜けて、季封の村の家々が見えてきた。
宮殿へ急ごうとする少女は、手を繋いだお兄さんが急に足を止めたので、つんのめるように立ち止まってしまった。
「どうしたの、智則」
「詞紀」
智則は微笑んでいるのか、泣いているのか分からない、歪んだ表情で少女を見つめている。
「俺が泣いてばかりだったのは、お前を守りたいのに、守れないことが悔しかったんだ。頼りないのは仕方なかった。言蔵の人間が玉依姫を守るのは当然の責務だけど、俺がお前を守るのは、言蔵も玉依姫も関係ない。お前が詞紀だから、命に代えても守りたかった。……いや、これからも、俺が詞紀を守る」
真面目な顔で言ってから、彼ははっと目を見開いた。そして「……この記憶はなくなるのに」と小さな声で呟いているのを、詞紀は小首をかしげて眺め、にっこりと笑って答えた。
「智則はやさしいね。私はね、友だちの智則がね、やさしいことも知ってるの。やさしいから泣くんだよ、って母様が言っていたんだけど」
少女は手を離すと、智則の側へと近づいていって、おしゃまな口調で、「しゃがんで」と言った。
言われた通りにした彼の頬を、小さな両手が包んで、幼い笑顔が側にあった。
額をこつんと当ててから、少女は屈託なく笑う。
「泣きたくなると、母様がこうしてくれるの。母様はなんでも分かるの。すごいの」
「……ああ、卯紀様はすごいよ、詞紀」
小さな手に手を重ねて、智則が微笑む。
高かった日差しは、いつの間にか西へ傾き、色づき始めていた。
――目を覚ますと春香殿の、自分の部屋の寝台に横たわっていた。
顔を向けると、神産巣日神が座っている。
「思ったよりも疲れた。……玉依姫、お前は? 疲れてはおらぬか」
「……まだちょっと眠いですが、神楽の準備をしなければ」
無理やり体を起こすと、頭の芯がずきずきと痛んだ。
どういうわけか、泣いた後のように瞼が重い。
「姫様。ご無理はなさらないで下さい。それに、時間はまだございます」
寝台を挟んで神産巣日の反対側には、言蔵智則が控えている。
彼はいつものように澄ました顔で座っていたが、詞紀はふと智則を見ると頬が熱くなったような気がした。
どんな夢も見ていないはずなのに。ただ、遠い遠い記憶の中で、彼と似た面影がある気がする。でももうはっきりと思い出せなかった。
「智則」
「はい」
「……ありがとう」
「何故ですか」
智則が驚いた顔をした。詞紀は自分でも何やら分からなくなって、視線をそらした。
「……いいえ、なんだか、そう言わなければいけない気がして」
「だったら、私も同じ気持ちです」
「え……」
詞紀が再び顔を上げた時には、智則はさっと立ち上がって、背を向けていた。
「とにかく、まだ本番まで時間がありますから。姫様はしばらくお休み下さい。今夜の祭の主役は、玉依姫なのですから」
「……ええ。では、そうさせてもらいます」
重い扉を開けて、彼が出ていくのを見送って、詞紀は微笑んだ。
簾からは夕焼けの光が差しこんでくる。祭はこれからが本番なのだ。と思うと、智則の言う通り、無理をせずに休んで本番に備えようと思い直すのだった。