この世界に絶対なる存在を与えて

「ああ、そうだ。雪を見ながら酒を楽しもうか、お姫様」
 酒を過ごしてほろ酔いになっている彼が、急に明るい声を上げたので、思わず詞紀は呆れたように相手のほのかに赤い顔を見つめた。
 何か忘れたいことがあって、酒に酔っているのは分かっていたが、酔っている場合ではないし、飲み過ぎないように言ったばかりなのに。
 古嗣が呼ぶと、すぐに御簾の向こうから女性の返事がした。酒と簡単な肴を用意するよう命じると、廊下を擦る音が遠ざかっていく。
 しばらくしてから、古嗣が手を出して言った。
「では、そこの縁側に出ようか。ああ、寒いからもう少し上着を重ねて」
「はい、古嗣様」
 生真面目な性質のためか、「こんな時にお酒を」と考えて悩んでしまうのだけど、古嗣の穏やかな笑みを見ると言われた通りにしてしまう。
 上着を重ねて、その手に引かれて部屋を出ると、月の光が積もる雪に反射して、夜だというのに秋篠家の庭の大体が見渡せた。
 その夜の中で雪はしんしんと地に落ちてくる。昼間と違うことは、夜に降る雪は何故だか重くて、見ていると息が詰まりそうになった。
「……古嗣様。もう少し側に寄ってもよろしいでしょうか」
 そう許可を得ながら、膝を擦るようにして距離を詰める。
「君の方から来てくれるなんて、嬉しいな」
 近い距離で古嗣がにっこりと笑った。それを見ると、急に頬が熱くなって、顔を下に向けた。
 胸の奥が締め付けられるように痛い。
(美しい人を見ても、こんなふうになるのかしら)
 でも空疎尊と初めて顔を合わせた時には、覚えなかった感情だと思い出した。
 もしも美しい人を見て鼓動が早くなるなら、亡くなった母と居てもこうなるはずなのに。それはなかった。
 もやもやと考える詞紀の耳に、侍女の声が響いて、はっと我に返った。
「お酒をお持ちいたしました」
「ああ、ありがとう」
 古嗣がそれだけを言うと、承知しているように侍女は酒と肴を置いて立ち去った。
 彼は前に高坏と瓶子を引き寄せると、盃二つに瓶子から酒を注ぐ。
「さあ、どうぞ、お姫様」
 勧めた古嗣が、先に盃を手に取って、一気に飲み干した。
 先ほどの「こんな時に」という気持ちが少しためらわせたけれど、勧めてくれたものを飲まないのも悪い気がして、両手を伸ばして盃を取った。
 彼に倣って一気に飲むと、ほっと溜息がもれた。
 まるで今この世界に直面している問題から、ここだけが切り離されているように感じる。これもまた酒の力のせいなのか?
 もちろん、忘れるわけではないけれど、
「これが違う世界であれば、古嗣様も、私も、辛いことに悩まされなくてよいのでしょうか」
 強さで押し隠していた弱さが、口を突いて出た。これもきっと酒のせいだ。
 古嗣は何も答えず、瓶子から自分の盃、そして詞紀の持つ盃へと酒を注ぎ、高坏に戻す。
 またその酒を飲んでから、また何か思いついたように笑った。
「この冬が明けたら、花見の酒をやろうか。そして夏になったら、星を見て飲む。秋になればおいしいものを肴に。そしてまた冬が来たらまた雪を見ながら酒を飲もう、お姫様」
「飲んでばかりではないですか」
 詞紀は思わずくすぐったい笑みをこぼした。
「それに、古嗣様はそんなにお強くないのでしょう?」
「でも、愛する人と飲む酒は、きっと誰と飲むより、おいしいからね」
「そうですね」
 と、頷きかけてから、その酒に誘われたのは自分なのだと思い出し、また早鐘を打つ鼓動を鎮めるように手元の酒を一気に飲んだ。
 酒に強くない二人にとって、その夜の酒宴は短かった。