まだあなたは言ってくれない
集落から離れた川辺は、村の女達の洗濯場所だった。
それぞれ家族の汚れ物を洗っている間は、とめどない世間話に花が咲く。
「うちの子は、剣の鍛錬にも身が入らないんだから。あれで本当に村を守る戦士になる気かねえ」
「うちの人なんていっしょになった途端、好きだも愛してるも言ってくれなくなって」
と、溜息まじりに嘆くのは、最近祝言を挙げたばかりの若妻だった。
――空は青く高く、絶好の洗濯日和だ。この後、水を絞った洗濯物を干すにも、気持ちよく乾いてくれるだろう。
そう、女達の話を聞く傍ら、ぼんやりと考えていると、
「詞紀様はどうなんだい」
年かさの女がそう聞いてきた。
「……え。申し訳ありません、ちょっと考え事をしていました」
「だから、アテルイ様は、何か言ってくれるのかい」
急に彼の名が出てきたことに茫然として、洗濯をする手が止まってしまった。慌てて動かしながら、彼が何か言ってくれたことを思い出していると、
「私が残ってくれるから、安心して他の男達と遠くまで出られる、とは言っていました」
「……それは、詞紀様の剣の腕前を褒めているんですね」
新郎が変わったのかと嘆いていた若妻が、微笑ましい口調で頷いた。
しかしそれより年上の、主婦として先輩の女達はそれに満足しないらしく、
「そうじゃなくて……、アテルイ様とあんたも夫婦になったばかりなんだから、なんかあるだろう。愛してるだとか好きだとか」
「あ、愛……!?」
そこで驚きのあまり言葉が詰まって、それ以上言葉は浮かんでこなかった。同時に頬がぽっと熱くなった。
汚れた水に濡れた手で、その頬を隠してしまったので、顔にべったり汚れがついてしまった時には、女達の楽しそうな笑いが川辺で弾けた。
(それにしても、確かにそんなことを言われたことなんてなかったな)
川から戻ってきて、家の前で洗った物を干しながら、彼女達に言われたことを繰り返し考えていた。
アテルイと会ったばかりの時は、敵意がむき出しだったからそういう場合ではなかった。その後、彼ら《土蜘蛛》と朝廷の戦いに参加した時には仲間と称して間違いない関係になったけれど、それ以上の関係ではなかったから「好き」だとか、そう言うのはおかしい。
――ではその後は?
と、考えると、恐ろしかった《オニ》との戦いだから、彼ともう一度会いたいと望むことはあっても、彼から何か言われたいと期待したことはなかった。強いてあげれば待っていてくれたら嬉しかった。
「……おい」
《オニ》との戦いが終わってから、彼や《土蜘蛛》の人々と共に大陸へ渡ってきて、祝言も挙げたけれど、その後もこれといった言葉はなかった。まして「愛している」など。
「おい、詞紀」
(……って、何故考えていただけで顔が熱くなってくるのかしら)
「詞紀!」
と、肩を掴まれ、無理やり振り向かせられた。
呆れた表情で詞紀を見据えているのは、今までずっと考えていたアテルイである。
「え、あ、随分と早いお帰りだったのですね」
「早くねえ。いつも通りだ。それより、お前はいつになったらそれを干す気だ」
考え事をしている間、詞紀が持っていたのは自分の襦袢だったので、悲鳴を上げて洗濯籠の中に押し込んだ。
洗濯物に両手を突っ込んで、しゃがんでいる詞紀を見下ろして、アテルイは呆れたように笑った。
「敵を前にした時とは別人だな。俺の次に強い女とは思えねえ」
それは彼にとって人を褒めている最上級の言葉なのだろう。そして今までの、玉依姫としての詞紀であればそう認めてもらうことは嬉しかった。
けれど川辺で他の女達に聞かされて以来、もっと違う言葉が欲しいと思う。はっきりとした形では分からなかったけれど。
「あ、あの、アテルイ?」
「あ? なんだよ」
「あの、他に、その、……夫婦として……言う言葉が」
「他に言うこと?」
肝心な言葉は口の裏にこもって聞こえなかったようだった。
アテルイはしばらく考える素振りをして、目線をそらしたが、
「ああ、そうだ。ちょっと休みに戻ってきたから、茶を淹れてくれ」
――そういうことではないと分かっていたけど、詞紀は立ち上がって、「はい」と返事をした。
(この人は、私のことを信頼してくれているから、欲しい言葉もいつかくれる気がする)
その前に、欲しい言葉を自分がもっと見定めておかなくては……と思いながら、詞紀はアテルイの後ろに続いて家に入った。
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