あたたかい腕の中で眠りたい


 涼しい風の吹く夏の夜に、虫の声が鳴いていた。
 その虫の音を聞きながら、春香殿を出て散策していると、ちょうど神謁殿の前で松明の灯りが一つ、近づいてくるのと出会った。
「姫さ……じゃなくて、し、詞紀、どうしたんだ?」
 名前を呼び慣れない夫が戸惑うのを、松明の灯りで確認した。
「秋房を迎えに来たの。いつまで待っても帰らないから」
「先に寝ていてもよかったのに」
 と、気の利いたことを答える秋房の、松明を持つ左手と逆の方へ寄り添っていって、その右腕に腕を絡めた。
「先に眠りたくないから、迎えに来たのでしょう、秋房」
 もう松明などなくてもその狼狽がはっきり見て取れるほど、顔を近づけた。
「し、詞紀……?」
「最近、遅くまで鍛錬して、妻を一人の褥で泣き濡らしても構わないの、秋房」
「終わったら寝床に戻っているけど……」
「でも、私が目を覚ますより早く寝所を出て行ってしまうでしょう」
 詞紀が言い返すたびに、秋房の頭が下がっていく。
 けれど彼女も、秋房を責めたいのではないのだ。
 名前を呼んで欲しいのも、今彼は自分の夫で、決して「姫」と呼ぶ立場ではないからだ。その呼び方を許しては、結婚前の関係が続いているだけで、何も変わらない気がする。
 何より、今夜に限って鍛錬が終わった秋房を春香殿の外まで迎えに来たのは。
「――秋房。私は女なのよ」
「な、何を言っているんだ、詞紀」
「夜は、好きな人の腕の中で、眠りに就きたい時もあるの」
 詞紀がそう言った時、不明瞭な声を上げていた秋房の顔が、茹だったように真っ赤になった。と、同時に歩く足がぎこちなくなって、思うように春香殿まで進まない。宮は、もう目の前だというのに。
「……あ、あの、詞紀」
「何?」
「……詞紀から、そう言ってくるのは、ずるい……」
 落ち込む秋房の顔が、茹だって赤くなったり、青ざめたりするのを繰り返す。
「というか……詞紀の口から言わせて、ごめん」
 溜息といっしょにそう言って、詞紀のゆるめた腕から抜いた右腕で、彼女の肩を抱き寄せた。
 その胸に頬を埋めながら、遅い速度でもいい、このままいっしょに歩いて行こう、と詞紀は微笑んだ。

(2013/09/27)
title:霜花落処(http://frost.soragoto.net/)