お前が欲しい

(これは物欲か?)


 ――こんなに賑やかな市は見たことがなかった。
 何がといえば、信濃の国府に立っている市である。随従した智則の話によれば、京から運ばれてきたものや、近くの鉱山で発掘された石を磨いて装飾品に仕立てたものなど、珍品が集まっているらしい。
 夏の盛りで、人が集まる場所は暑さがひとしおである。
 それにしても露天に並んだ店の品ぞろえが華やかで、こういうことに慣れない詞紀は目がくらみそうだった。
「姫。お気に召された物がなければ、そろそろ……。日暮れ前に季封へ帰らないと、空疎殿よりお叱りを受けてしまいます」
 智則が静かな口調で急かす。詞紀は眉を寄せて短い溜息をつき、店の品物をもう一度見渡した。
 国府にいるのは、信濃守に挨拶をするために来たのであり、その対面はもう終わった。後は季封へ戻るだけなのだが、何か土産物が欲しいということになって、さらにちょうど市が立っていると智則が言い出したことから、賑やかな街の中に入ってきたのだった。
 ただ、土産物として喜んでくれそうなものは見つからなかった。
「空疎様だったら、とても古い、希少な書物まで読んでいらっしゃるだろうし」
「ええ、そうでしょうね。空疎殿のお話を聞いていると、どの文献を読むよりよほど知識を得られる。八咫烏の一族が知識を司っていたと自負するのも理解できるというものです」
 古い巻物が並ぶ露店の前で、詞紀の呟きに智則も頷いて応じた。
 知識を司る言蔵家の智則がそう認めるのだから、空疎尊の持つ知識とは相当のものなのだろうと察せられる。特に、詞紀が目を通すには難しい文献を持って、【剣】を破壊する方法を読み解いた空疎尊なのだ。
「そうだわ、智則。この辺りはお酒がおいしいのでしょう。それを胡土前様のお土産にしましょう」
「はい。承知しました」
「秋房には……干し肉がいいかしら」
「あいつは梅干しの詰まった壺一つでいいですよ、姫。……幻灯火殿には」
「何か珍しい玩具か何か……、空疎様には、旅のお話をお土産にするわ」
 結局、空疎尊のために購入するものが見つからず、土産話ということになってしまった。
 帰る道中、智則には明かさないが、機嫌を損ねはしないかと不安で胸はいっぱいになった。(時々、早く愛する人に会いたいという気持ちになるのも抑えられなかったが)


 ――昼間は暑かったのも、夕方になると風の涼しさが心地よかった。
 季封の村に着くと、先触れの式神を出しておいたせいか、秋房と村の子供達が数人、入口まで迎えに出ていた。
「姫さまー! おかえりなさい!」
「たびは、たのしいですか?」
「姫様、お疲れ様です!」
 子供達と同じ表情で、いっしょになって駆け寄ってくる秋房に、詞紀は困ったように笑った。傍らでは智則がふっと溜息をついた。
「秋房。留守を守ってくれてありがとう。……他の皆様は?」
「胡土前殿も、幻灯火も、それぞれの務めについている最中です。……空疎は、その、手習いを終わらせたようですが。だったら姫様の出迎えでもすればいいのに。薄情な奴だ」
「秋房」
 と、呆れたような声でたしなめたのは智則だった。
「失礼だぞ。空疎殿はもはやお前と同列の守護者ではない。姫様の夫君だ」
「うっ……済みません、姫」
 痛いところを突かれたように、秋房はべそを掻くような顔になって口を開いた。
「それより、早く戻りましょうか。子供達を連れて帰らないと、大人達が心配するもの」
 詞紀は子供達の背中を押して、民家の集まる集落の中心へと進んでいく。
 その間、賑やかな声が昼間あったことを報告する。その声の中に、青年の声が一際高く、
「俺も今日は武官の鍛錬を頑張りましたから!」
 と、自己主張してきたことは言うまでもない。
 何人かの影が、夕日が差して、道に長く尾を引いた。



 夏の夜は虫の声が盛んだ。
 胡土前は、土産として購入してきた酒を食らって、宴の部屋で仰向けになって眠ってしまった。
 その前から彼の酩酊についていけないと、空疎尊はさっさと自室に引っ込んだ。おそらく最後まで胡土前を介抱することになろうから、大事となる前に引き上げたのだろう。
 代わりに詞紀が、酒に酔い潰れた幻灯火と胡土前、秋房の介抱と、片づけを済ませて、やっと空疎尊と二人で過ごせたのは彼が部屋へ戻ってから何刻も後のことだった。
「奴らは、ようやく静まったのか」
 広げた巻物に目を通しながら、空疎尊が訊いた。
「はい。風邪をお引きにならないように、毛布などかけてきました」
「……全く、物好きなことよな。あいつら……特に蛇へ酒を土産とするなど。こうなることは考えなかったのか、詞紀」
「考えましたが、でも胡土前様はお酒が好きでいらっしゃるから。何か土産物をと考えるならば、やはりお好きなだけ飲んでもらいたくて」
「ふん……それで、何故我には何もないのだ?」
「え、と、はい、それは、ですね」
 詞紀なりに考えがあったから、あえて空疎尊への土産物はなかったのに、そう問われるとちょっと言いよどんだ。
 膝の上で両手を揉み合わせ、言葉を探しながら口を開く。
「その、空疎様は何を欲しいという物が見つからなくて、でしたら信濃への旅の話を土産とすればよいのでは、と思ったのです」
「我が何を欲しいか、分からぬということか?」
「そうではなくて、いえ、それもあるのですが……、そもそも空疎様は物欲というより、知識欲が豊富な方でいらっしゃるから。信濃がどのような場所か、国守様がどのようなお方か、市がどのようなものだったか、というお話を好まれるのではないかと思いまして……」
 しどろもどろに答える詞紀を、ふっと鼻で笑って、広げた巻物を放った。代わりに腕を伸ばして詞紀の手首を掴むと、強引に引き寄せてたちまち腕の中へと閉じ込めてしまった。
 唇が触れそうになるほど顔が近い。数えきれないほどに受けた愛情の証なのに、空疎尊の顔が美しくて、されるたびに詞紀は緊張する。
「欲しいものなど、分かっているだろう、詞紀。それとも、我の口から言わせたいか?」
「な、何でしょうか、それは」
 自惚れになりたくはないが、抱き寄せられた体勢で問われると、そうなのかと思って頬に熱が上る。
 唇が近づいてきて、詞紀はそっと瞼を伏せた。その瞼に熱い息がかかった時、ふっと吹き出す声が聞こえて、恐る恐る目を開けると、笑みをこらえきれない空疎尊が、目の前で押し殺した声で笑っていた。
「くくくっ……全く飽きない女だな、貴様は。単純なことだ」
「す、素直だと言ってください……っ!」
「そうだな、折角だから、貴様の土産話は、褥の中で聞かせてもらうとしようか」
 今度こそ、詞紀の唇に口づけを落とした。
 信濃の国府を往復する旅があったというのに、今夜はどうも眠れない気がした。



(2013/09/27)
title:反転コンタクト(http://nanos.jp/contact/)

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