書庫に足を踏み入れると、季封の長は文机に上半身を伏せて眠っていた。
「詞紀……いや、姫様」
一瞬、巫女も言蔵も隠岐も関係なかった年頃に記憶が戻り、昔のような呼び方をしてしまった。秋房を甘いと評する自分も、何と甘いことか。
しかし、よほど異国の文字に疲れたのか、起こすつもりでかけた声が、夢の中の詞紀には届かないようだった。真面目な彼女は、浅い眠りの中ならば慌てて起き直るはずである。今は深い眠りについているらしい。
季封宮に限らず、大切な古文書が保管されている書庫は、傷みを防ぐために日の光を入れないようにしてある。だから書庫の内部は肌寒いし、薄暗い。何より、眠ってしまうには少し黴臭さが気になるはずだ。
にも関わらず詞紀がこんなに眠っているというのは、昨夜からの眠りが足りないか、今朝からの講義や儀式で疲労甚だしいためか。
「姫。こちらではなく、自室へお下がりください。体調を悪くします」
揺り起こそうとして、肩に伸ばした指先が、微かに向けた白い頬に近づいた。
その時、瞬くように詞紀の脱走騒ぎが脳裏をよぎっていって、抑えつけていた秋房を嫉む気持ちが頭をもたげてくる。
(秋房でさえあなたの手を握ったのだから、俺が触れても何を言われる筋はないだろう?)
――愛する人に触れたいと思うのは、誰であっても同じなのだから。
けれど、言蔵家の代表としての理性が、愛や恋といった情を抑えた。――大切に思うのはいい、だけど盲目になっては役目を果たせない。宇賀谷家が光なら、言蔵は影。【剣】を守る宇賀谷の巫女のために、影となって汚い仕事に手をつけるのだ。恋に堕ちて盲目となった時、その役目に支障をきたさないとは、誰が断言できるのか。
(……詞紀は、体の苦しみを耐えて、今の役目を務めているのに。俺が役目を捨ててどうする)
頬に触れかけた手をぐっと握りしめ、改めて詞紀の肩に手を置いて揺すった。
「姫、姫、起きて下さい。もう調べ物も講義も、終わりにしましょう」
「……ん、えっ、智則?」
彼女が寝ぼけ眼の顔を上げる。智則は、思わず笑った。
「ひどい顔をなさっている。そのままで出たら、秋房がいらぬ心配をしますよ、姫」
「そ、そんなにひどい?」
「鏡のないのが残念です」
起きている詞紀を相手に、不思議と屈託なく笑えている。彼女はしばらく袖で目元を押さえたり、何度も瞬きをしていたが、
「寒くなってきたから、戻りましょう、智則」
そう言って立ち上がった。
「はい」
読み散らかした書物を簡単に重ねてから、智則は詞紀の行く後ろに従う。……今さら確認するまでもない。智則が守るべきは、季封や【剣】ではなく、重たい宿命を背負わされたこの細い双肩なのだ、と。