少しつきあいませんか?

 吹く風に手のかじかむ冷たさはなかった。
 春の訪れが近い、と感じると、辛かった戦いが遠い昔のように思われる。けれど過ぎた戦いは紛れもなく現実にあったことで、その明らかな根拠が半壊した京、しかも内裏の姿だった。
「ああ、詞紀」
 名を呼ばれて、声の方へ正面を向けると、廂の下の廊下を、薄布をまとう優美な長身が近づいてきて、艶やかに笑いかけた。
「休んでいるのかな」
「はい。少しだけ。すぐに戻るつもりですが……」
「いや、ちょうどよかった。口実を作る手間が省けたよ。――庭の方に下りて、歩かないか」
 自分のかかっている仕事についてちょっと思い返してみたが、早急に解決しなければならない問題は抱えていなかった。
 それに、ここ数日お互いに立て込んでいたから、二人きりで話す時間が少なかった。
 承諾を伝えると、古嗣はにっこりと笑って頷いた。
「よかった。では、行こう」
 少し離れたところにある階まで歩いて、玉砂利の庭へと下りていく。
 京に来て気づいたのは、白い砂利や砂に、人工的に引いた曲水が流れて、植物はその池の周りか庭の端の方に配されていることだった。
 と、いうことを歩きながら古嗣に伝えると、
「貴族達は、ここで蹴鞠をやったり、曲水の宴などの行事を行なうからね」
「曲水? ああ、聞いたことがあります。和歌を詠み合うんですよね」
「そう。盃が自分の前を流れていってしまう前にね」
「古嗣様も、参加したことがあるのですか?」
「僕は検非違使だから。何かあった時のために控えている側だよ」
 苦い笑いを含ませる彼を、まじまじと見つめて、
「けれど、私は古嗣様の歌を聞いてみたいです。……不得手なので、良し悪しは分からないのですが」
 驚いた顔でしばらく詞紀を見つめる古嗣だったが、可笑しそうに吹き出した。
「な、何かおかしいでしょうか」
「いや……」
 手の甲で口を覆い、少し笑いをこらえている様子を見せてから、笑みを浮かべたまま落ち着いた口調に戻って言った。
「本当に、君の素直な性格は美点だね。隠そうとしてしまった僕がふがいない」
「え、私、何か言いましたか。歌が苦手ということしか……」
「ああ、そうだよ、僕も苦手だから。でも君にいい姿を見せたくて、検非違使だかって言って逃げてしまった。……歌を苦手とする貴族もいるのだから、恥じることではないんだけどね」
「そ、そうだったのですか。でも、苦手だからと言って避けているのも、なんだかつまらないですね」
「んん? どういうことだい、詞紀」
 古嗣の唇の端が、ちょっと引きつった。
 季封では玉依姫が知っておかなければならないことが多くて、歌などの遊びとしか受け取られないものは教えてもらったこともない。
 確かに歌が苦手な貴族もいるにはいるのだろう。だがそういう人は他に得意なことを見つけて邁進しているということだ。
 だからといって苦手なものを避けているのは、本来楽しむべき趣味を一つ失っていることになるのではないか。
「古嗣様。あたたかくなって、花が咲く頃までに、一つ歌を作りましょう」
「……本気かい? 君も、作ったことはないのだろう」
「はい。ですが分からない時は、貴族の方に教えていただきます。……私は、楽しいことをもっと経験したいのです」
 それは何故か、とは言わなかった。古嗣も、それ以上聞かずに訴えた詞紀を見守っている。
 少し考える様子を見せていた彼は、ふっと息をついて諦めたように苦笑した。
「お姫様の頼みとあれば仕方ないね。花が満開になる頃までに一首……自信はないけど、作ってみよう」
 そう頷いた古嗣の顔はどこか、照れくさそうに見えて、詞紀はちょっと笑った。

(2013/09/24)
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