夏の氷に映す心

 夏の夕暮れはなんだか物悲しい。それというのも、夕べに鳴く虫の声が、一生の終わりが近いように一層高い声で鳴いているからかもしれない。
 さらに、内裏から庭へと下りると、先日の戦いの名残が目に見え、それらが夕日の色に濡れそぼっていく。どんなに華やかなものも、一度破壊されれば戻すのに時間がかかる。ということを京の政を再開する準備をしている現在、噛みしめている。
 といっても信濃国から京に上ってきた詞紀に、京の政が分かるわけがない。ほとんど秋篠古嗣の手伝いに過ぎなかった。
「――季封が恋しいのかい、詞紀」
 そう呼びかけられて、はっとした気持ちになって振り返った。階の上に、古嗣が削氷を用意して立っていた。その顔は遠慮がちに苦笑している。
「こんなに長くなるつもりはなかったんだけど……やっぱり政は難しいね」
「古嗣様、私はだいじょうぶです。……それは、季封の皆が心配なのは確かですけれど。智則に任せていれば安心ですし、空疎様もいらっしゃいますから」
「うん、君がそう言うのなら、いいんだけど」
 その苦笑が晴れることがないのが、詞紀には心にかかる。
「ところで、氷が溶けてしまうから、こっちにおいで」
 古嗣が招く通りに、詞紀はきびすを返して内裏へと戻っていく。階を上がって彼の横に立った。
 彼の用意してくれたのは、削った氷を盛って唐きびの蜜をかけたものだ。盛っている器も薄い碧色をして涼しげである。
 それを受け取ろうとすると、古嗣は笑顔のまま手を離さなかった。
「……古嗣様?」
「はい、詞紀」
 氷を匙で掬い、彼女の口元に持っていく。
「あ……あの、自分で食べられますけれど」
「こういうことは、こういう関係でなければ出来ないからね。さ、口を開けて、詞紀」
「あ、ああ……」
 少しの間逡巡してから、彼女は諦めて口を開く。そこに匙が入ってきて、舌の上を冷たさが刺激して目が覚めた気がした。(別に眠かったわけではないけれど)
 古嗣が二口目を匙に乗せて、また口元に寄せるのだけど、それを口に入れても、冷たさは感じても氷が水っぽいだけで蜜の甘味は感じなかった。氷を口にすると頬が熱いのを自覚するだけだ。
「はい、詞紀、また口を開けて」
「いったい、どうしたのですか、古嗣様」
「ん? こうすると僕しか見えなくなるだろう? 他の男の名を口にすることなんか、なくなると思うよ」
「……えっ」
 ――智則に任せていれば安心ですし、空疎様もいらっしゃいますから。
 そう口にした自分の声が頭の中で繰り返される。さあっと血の気が引いた顔を伏せて、上目遣いに相手の笑顔を気遣いながら、
「古嗣様が、気になさることはないのですよ。そういう意味じゃなくて、季封の皆を守ってくれるのに、最も信頼できるから……」
「分かっているよ。ただ、しばらく会っていないのに、それでも信頼されている二人に、ちょっとやきもちを妬いた。それだけだよ、詞紀」
 その言葉通りに、古嗣は屈託なく笑っている。
「最初は、皆がしないことを君にしてあげようと思ったけど。……差し出すまま食べてくれる詞紀が可愛いから、やめられなかったんだ」
「古嗣様……」
 引いていた血の気がまた奔流する。咎めようと決めてから、さくさくと氷を崩す音を聞いた。また口元に運ばれる匙と、期待する微笑みを浮かべる古嗣。
 彼のそういう笑顔は詞紀をうまく懐柔する。再び唇を開けて、匙を口にした。今度こそ、氷の冷たさの中に、唐きびの甘い味が広がり、喉の渇きが潤った。
 そういうやり取りの間に、濡らすように照らしていた夕日は、いつしか西にとっぷり沈んでいた。