詞紀が碁石を置いた途端、冷たい水が下から噴き出し、膝の上で眠っていた猫は弾かれたように逃げていった。
《剣》の呪いを解くために、高天原へ旅をしている途中の野営だった。季封を出た後に拾った猫を三人目の仲間にして、旅を続けている。
その間にも剣ではなく囲碁で勝負をする二人だったけれど、胡土前が勝てないのと、勝負がつく前に水が噴き上がって碁盤をめちゃくちゃにしていくことは変わらない。
「胡土前様……、剣術ばかり強くても、負けが決まる前にごまかしていることは潔くないのではありませんか」
「あ? 何言ってんだ、詞紀。水が下から噴き出してるだけだろうが。……あー、まためちゃくちゃになっちまったな。またやり直すか」
「いいえ、私は遠慮させていただきます」
さすがに三度勝負して、その全てが水が噴き上がってやり直しになると、詞紀も溜息をついて碁盤の前から立ち去っていく。
「お、いいのか、詞紀。俺の勝ちってことにするぞ」
「どちらでもいいです」
そっけなく答えて焚火の前から離れる途中、後ろの方で「やべえ」とうめく声が聞こえた。
――そっけない言い方をしたからといって、愛想を尽かしたわけではないのだ。
詞紀は野営しているところから少し歩いた川岸まで着くと、座りやすい岩に腰を下ろして、道しるべになった月の光を眺めた。
高天原までの道は長い。むしろ、神の住む地が、どこにあるかさえ分からないのだ。(神が住むのだから、当然といえば当然だが)
自分から胡土前にさらわれると、と吹聴したのに、今になって季封の地と、そこに住む人々が恋しくなった。
(いけない……こんなに女々しいようでは、皆と顔を合わせられない)
うつむき、何度も頭を横に振った。それでも村の皆、それに共に戦った仲間達の顔は消えてはくれない。
その時、ふと足に絡みつくものがあって、顔を覗きこむと、拾った猫がすり寄ってきて一つ啼いた。慰めてくれているようで、詞紀は微笑むと両手に抱き上げて膝に乗せる。
「……あのよ、姫さん。俺も大人げなかった。だから、せめていっしょにいてくれ。心配でたまんねえ」
猫といっしょに来たらしい、後ろから胡土前の声がした。
詞紀ははっと顔を上げたが、すぐにあきらめたように微笑むと、
「おとなげないのは私です。胡土前様がこういう方だと分かっているのに、腹を立ててしまって」
「いや、まあ、そこは諦められると参るところなんだがな」
彼が頭を掻いて、すまなそうにうなだれている様子が、手に取るように分かる気がした。そのために詞紀はくすくすと笑った。
戻ろうとして、腰を上げた時、後ろから抱きしめられた。一瞬驚いたけれど、すぐにその胸に寄りかかって、詞紀はいつまでもそのあたたかさを感じている。そして、心の内で呟くのは。――(あなたには敵わないと、諦めているのは私……)
水の流れる音といっしょに、鼓動の音を重なって聞いた。