愛するよりも
愛され指南
 主・神無巣日が天へ還ったと幽世中に知れ渡ってから、半月が過ぎた。
 崩れた秩序を立て直すことは容易ではない。しかも片腕であった風波尊もいない。
 それでも力を貸している二人は元々真面目な性質だから、幽世は表向き落ち着きを取り戻しかけていた。
「空疎殿、玉依姫。後は我々に任せて、お休みください」
 文官が三人ほど、控えめに言ってきた。詞紀は時々休息を入れていたが、ほぼ一日以上働き詰めなのが空疎尊だった。むしろ、大丈夫だと言って務める詞紀を追い立てるように休ませたのは彼だ。
 だから、文官達が休息を勧めるのも分かるというもの。
「案ずるな」
 と、短く答えたきり、黙々と執務をこなす空疎尊の傍らまで歩いていって、
「空疎様。ご厚意に甘えましょう。皆様を信頼することも、政務の一環ですから」
「詞紀……しかし」
「さあ、さあ、早く早く」
 無邪気な少女のように、彼の腕を両手で掴んで席を立たせると、渋い表情を見せながらも彼は従うように動いた。
 部屋に残る人々に会釈をして、そこを後にすると、二人はしばらく無言で廊下を歩いていたが、
「……どういうつもりだ、詞紀。我は休んではならぬ。我らのために犠牲となった神無巣日のために」
「それは、そうですが。ですが空疎様の思いはそれだけではありませんでしょう? ……その、風波様のために、幽世を元通りにしようと考えていらっしゃる」
 ちょっと口ごもりながら、詞紀はこの半月考えていたことを口にした。
 「神無巣日のため」――それは詞紀もそうだし、彼女が遺した幽世だから秩序を戻そうとするのは成り行きだ。
 けれど、この半月ろくに休むこともなく執務をこなす恋人を見守っていて、時々辛そうに感じることがあった。そういう時、いつも「風波様のことか」と内心思い当たるのだ。
 風波尊にとって幽世は勾玉を狙うための一時の宿り木でしかなかったかもしれない。それでも彼は幽世の武官をまとめ、秩序を守ることに尽力した。一人の武官としての弟のために、空疎尊はここまで身を粉にしているのではないか。
「そう見えたか」
 聞き返す空疎尊の口ぶりは幾分苦いものを含んだようである。
「はい、あの、印象ですが……」
 うつむきがちに言葉を濁らせて呟く。
 自尊心の強い八咫烏の末裔は、しかし困ったように微笑をこぼしてから、詞紀を見つめた。
「守ろうとした我が妻に気を遣わせてしまったか。夫としての立場がないな」
「空疎様、私はそこまで……」
 顔を振り上げて咎める。しかし先の言葉は、手を上げて制した空疎尊によって、失われた。
「愛されることの下手な妻から、愛されることを教えられるとは、ふがいない」
「……下手とか、上手とか、関係ないと思いますが」
 子供のような詞紀の反論に、空疎尊は呆れたように唇の端を上げて笑みを作る。
「少なくとも貴様はそうだ。尤も、下手というより慣れていないのだろうがな」
 彼が足を止めた。それに気づかず、数歩行き過ぎてから、詞紀は足を止めてきびすを返す。
 空疎尊は、幽世の美しい景観を眺めていた。風波尊との戦いで破壊されたものは、この半月でほぼ修復されてきている。
 けれど、人々の気持ちだけは元通りにいかないものだ、と詞紀は空疎尊の横顔を見つめながら唇を噛んだ。
 この幽世で風波尊を信頼していた武官も、ほんのわずかな考え方の違いから弟と道を分かち、戦う羽目になった空疎尊も、その心の内は未だどれほど苛まれているというのか。
「――貴様がそんな顔をするな、詞紀。これは我の問題だ」
 巡らせていた思いが掻き消えたのは、彼の手が頭に置かれたからだ。
 目線を上げると、穏やかな笑顔が詞紀を覗き込んでいた。鼓動が早く鳴り始めた。
「だが、そうして我が事のように悩んでいる貴様も、愛おしいのだがな」
 ――詞紀も、対立したとはいえ弟のことを深く愛している彼だから、切なくなるぐらい愛しい。
 上げた顔に微笑を浮かべ、彼女は言った。
「では、私は今のままでよろしいのですね」
「無理をしなければな」
「それはお互い様です」
 相手の顔が近づいて、額と額が軽く触れた。笑みを交わし、再び肩を並べて歩いていく。話しているうちに、不安も疲れも消えてなくなっていた。
相思相愛なんだと思っていただければ幸いです。