昇華してゆく、





 ――しんしんと雪の降る夜だった。
 思えば、悲しいことがある時、いつも雪の降る冬だった気がする。でも、思い出すこともしたくなかった。悲しい時に悲しいことを思い出すと、胸がふさがって苦しくなる。
(私は、大丈夫)
 言い聞かせながら、雪明かりの空を見上げている。辛いのはあの人なのだから、自分まで辛い顔をするわけにはいかない。あの人は、自分を守るために命を削った。
 心を強く持って、詞紀は立ち上がった。今はただ彼に会いたいと思う。
 理由の知らぬ刺客の追跡を振り切り、京、秋篠家の邸へ帰ってきたところだった。門前に到着した時の、古嗣の安堵した表情はまだ覚えている。体力も呪力も使い切った彼は自室に連れて行かれて、眠りに就いたようだった。
 それでも、彼の側に居たいと、詞紀は思っていた。
 そして【剣】を携え部屋を出て、ちょっと歩いたところで、秋篠吉影と行き会った。
「これは、玉依姫。どちらへ?」
「古嗣様の元に。お部屋は、どちらでしょうか」
「あれはよく眠っておりますが……」
「それでも構いません。お顔を見ていたいのです」
 強い視線を向けて答えると、しばらく彼女を見守っている吉影だったが、諦めたように苦笑して溜息をつくと、
「そのように意志のはっきりとした目を向けられると、断るものも断れませんな」
 どうぞ、と袖を持ち上げ、手で方向を示しながらきびすを返す。詞紀は、その後ろについて行った。
 下働きの女房数人とすれ違いながら歩いていくと、一つの部屋の前で吉影は正面を向いて立ち止まり、手で指示して入室を促す。
「……吉影様は」
「私はよいのですよ。それに、年老いた父よりも、うら若き女性が側にいるほうが、古嗣は喜びましょう」
「……では」
 その言葉に甘えて、詞紀は部屋の中へと入っていく。扉の閉まる音がして、振り返ると吉影が塗籠の扉を閉めたところだった。
 室内は小さな灯りが一つあって、薄暗い。その灯りを頼りに近づいていくと、寝台に古嗣が横になって眠っていた。
「……古嗣様」
 ほっと息をついて、その枕元に寄っていく。
 穏やかに眠る顔を見ていると、残る命が半月などとは信じられない。目が覚めたら、いつものように軽口を叩いてくれそうなのに。
「何故……私のために命を削って助けてくれたのですか。いずれ、自分の娘に殺される宿命の私を……」
 彼の頬へ伸ばす手が震える。その震えのために目を覚ましたのか、頬に重ねた手に、さらにあたたかい手が触れた。
「泣いて、いるのかな。お姫様」
 濡れる視界に、微笑が歪んで見えた。
「笑ってくれているほうが嬉しいな。こうしていっしょにいるのだから」
「…いつから、起きていらしたのですか」
「父上といっしょに部屋の前に来ていただろう? 僕は、こう見えても敏感なんだよ。影に徹して動いてきたからね」
 古嗣が、ただの検非違使でないことは気づいていた。でも、今はそんなことは関係なかった。
「古嗣様は、何故私を助けたのですか。あなたの命は、吉影様のために……」
 彼は目を閉じて、しばらく何か考えている様子だったが、
「そうだね。今までの僕だったら、父上以外の誰かのために、命を懸けることはしなかった」
 複雑な笑みを浮かべて呟いた。
「でしたら、何故私のために」
「お姫様が美しいから。っていうのは答えになってないみたいだね」
 どうやら詞紀は、泣きながら怒っている顔をしているらしい。古嗣が苦笑いになってそう言った。(頬が引きつって、自分では怒っているのか泣いているのか、または笑っているのか分からない)
「……ねえ、詞紀。もしも君が玉依姫ではなくて、僕も秋篠吉影の使いでなければ、僕達はこうして知り合えたかな」
「それは……」
「きっと、どこかですれ違っているだけで終わっていた。君が玉依姫だから、僕達はこうして側にいる」
「では、玉依姫でなければ、あなたは私のために命を懸けなかったのですか」
 言い終える前に、触れた手を強く掴まれて、同時に引き寄せられた。仰向けになった古嗣の上に、詞紀が重なる形になる。彼の両手が、詞紀の肩を押さえつけながら、
「そうだけど、そうじゃない。君が玉依姫でなければ、どこかですれ違うだけだったけれど、僕が君を守りたいのは玉依姫だからじゃないんだ」
 語る言葉が矛盾している。でも詞紀は、彼の言葉がどこか信じられた。
 何故なら、彼は自分のために命を削った。それに、詞紀が玉依姫でなければ、古嗣とも、さらには空疎尊や幻灯火、胡土前とも出会えなかった。今は離れているけれど、秋房を含めた彼らもまた自分を守るために前線に立っていてくれたのだ。
 そして、古嗣は、「守りたいのは、玉依姫である詞紀ではない」と言った。
「……古嗣様。そのお言葉だけで、充分嬉しいです」
 彼の胸に頬をつけて、詞紀は微笑んだ。例えこの先、誰が自分を利用しようとも、古嗣が側にいれば立ち向かっていける気がした。
 愛する人が、――愛してくれる人が側にいる。その事実の大切さを、詞紀は初めて噛みしめた。そして、言った。

「私が、あなたを守ります」

 ――幸せは自分の手で守るものだと、教えてくれたのは亡き母だった。


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