夏、風の痕

 馬と供を歩ませて信濃国に入ると、「懐かしい」という気持ちを覚えた。
 かといって、この地で生まれ育ったわけではない。ただ短い時間に、一つのこの世のものならぬ戦いに身を投じただけだ。
 それでも「懐かしい」と思うまでにここが大切だと思うのは、この村に住む人達に愛着を覚えたからではないか。
 その村の入り口まで馬を進めてくると、そこに一人の青年が立って出迎えているのを見た。――(一人だけなのか)と失望の気持ちで軽く苦笑した。
 それは面には出さず、彼の前で馬を下りると、
「やあ、智則。元気そうだね。何か変わりはないかい」
「はい。こちらは何も。時が止まっているように、相変わらずです」
 冷静な性格らしく、淡々と村の今の様子を教えてくれる。玉依姫の側仕えの片割れの、もう一人とはおもしろいほどに対称的だ。
「古嗣様のお越しは、姫様と限られた者にしか伝わっていないのですが、何分小さな村でございますので」
 それは、ここから先は大騒ぎになるかもしれない、と言っているのと同じだった。
 むしろそう注意をしておいて、古嗣を驚かせないようにしているのかもしれない。
 先行する智則の後ろに、馬を引いてついて行く。


 空は夏の青空で、あの戦いからかなり経ったのだと今更のように噛みしめる。苦しいことや悲しいことがあった季節は大抵冬で、皆が冬という季節から抜け出すことが出来なかったのに。
 その戦いから時が過ぎると、犠牲者も少なくなかったこの村も立ち直りかけている。
 そう考えながら歩いていると、村の広場に着いて、着いたと思うと同時に駆けつけてきた子供達に古嗣は囲まれてしまった。
「智則。これは、どうしたらいいのかな」
 集団から少し離れて、微笑を浮かべている智則へ声を上げた。
「ですから、申し上げたではありませんか。小さな村ですので、知れ渡ってしまったのだと。……といっても、口の軽い誰かが村中で言いふらしていたのですが」
 彼のそういう言葉も届かないぐらい、子供達の声がかしましい。
「それにしても古嗣殿は子供から慕われているようですね」
「――その通りだな。教育係を替わって欲しいものだ」
 と、不機嫌そうな顔で近づいてきたのは、
「やあ、空疎。元気そうで何よりだね」
「貴様こそ、な。それにしても京の政を落ち着かせるとやらに、随分と時間がかかっているのではないか?」
 嘲るような笑みを浮かべて、彼がそう言った。
「そうかもね。予想していたよりも、理想通りに行かないのがもどかしいぐらいだよ。本当に、父上の理想は遥か高みだよ」
「……ふん。今更気づいたのか。そんなことより」
 空疎は鋭い視線を子供達へ移すと、手当たりしだいにその襟首を掴んで、
「まだ手習いの時間は終わっていない! 席に着け、席に!」
「だって、くうそさまのおべんきょう、つまんないー!」
「ふるつぐさまがおしえてー」
 空疎の威圧も、無邪気な子供には通じない。一方、彼らは古嗣の裾にすがって、
「けまりうまくなったのー。だから見てー」
「わたしにも、けまりおしえてー」
「わたし、姫さまからあやとりおしえてもらったのー」
 と、彼らは口々に言いたいことを言うので、さすがの古嗣も全てを聞き取れないので困惑する。
 空疎はただ怒って引き離そうとしていて、智則も止めるのは無駄だと思っているのかそこから動こうとする気がない。
 そして古嗣は困惑しながら子供達の相手をしていたが、


「皆、姫様がお越しになったぞ。静かにするように」
 智則が声を上げると、波が引くように子供達はおとなしくなり、あっけなく古嗣から離れていった。
 神掲殿のある方向からやって来たのは、この季封の長で、玉依姫である詞紀の姿だ。
 彼女は子供達に囲まれて、笑みを浮かべて接しながら、
「みんな、古嗣様のお越しが嬉しいのは分かるけれど、長旅をしてこられたのだからあまり困らせては駄目よ」
 詞紀がそういうふうにたしなめると、素直に返事をする子供達である。よほど彼女を慕っているらしい。
「それから、空疎様はあなた達の未来のために教えて下さっているのだから、文句を言わないであげて」
「はい、おひめさま!」
「では、戻りなさい」
 うながすと、子供達は元の場所へと走っていく。空疎は苦々しい表情で詞紀と目礼を交わしてから、その後を追っていった。
 しばらくして、詞紀がこちらへと歩を進めてくる。
「お騒がせしました、古嗣様。皆、あなたがお帰りになるのを待っていたようです。……もちろん、私もですが」
「僕もお姫様と会えて嬉しいよ。以前よりもずっと美しくなったね」
「そのような……古嗣様はお変わりにならない」
 それでも、あまり迷惑そうな顔ではない。
 詞紀はふと控える智則へ振り返ると、
「智則。私が案内するから、古嗣様の馬と供の方はお願いね」
「はい。かしこまりました、姫様」
 智則が頭を下げるのを確かめてから、彼女はこちらへと向き直り、
「では、ご案内します」
「ああ、ありがとう、お姫様」
 後ろからついて行くと、辿る順路は神掲殿ではなく冬獅殿である。
「珍しい場所へ行くんだね。それとも、僕と手合せをしようと?」
「長旅をして来られた方に、そのような失礼は申しません。皆、こちらに集まっているので」
 武官の詰所に、何用で集まっているのだろうか。


 と、疑問を抱きかけた古嗣の耳に、行く先から言葉にならない叫び声が飛び込んできた。
「……今朝からずっとこの調子なのです」
 そう言って、花のような唇から溜息をこぼす詞紀である。
 普段は、秋房が木刀を振るっている場所だったが、詞紀に導かれて足を踏み入れたそこでは、碁盤を中央に置いて満足そうに胸を張っている胡土前と、盤上に目を凝らす隠岐秋房、さらにこちらに背を見せて幻灯火が座っている。
「おお、古嗣。久しいじゃねえか。早速、一杯相手をしろよ」
「いや、後でいい。ところで、随分とご機嫌のようだね、胡土前」
「そうでございましょう。だって、碁で勝ったのですもの」
「いやいや、姫さん、勝ちっていうのは気分がいいぜ。剣でも囲碁でもな」
「……こ、胡土前殿、もう一戦お願いします!」
 諦めきれない顔色で、秋房が胡土前に食い下がる。あまりに必死で古嗣の到着には気が付かないらしい。
「詞紀。十戦目を過ぎたのだが、止めなくてもいいのか?」
 幻灯火が古嗣に視線をやりつつ、訊ねた。
「気にしなくてもいいよ、幻灯火。興味があるから、僕もこの勝負を見ていよう」
 と、幻灯火の隣に腰を下ろした時、ようやく秋房の視線がこちらへと巡ってきた。
「な、なんだよ、古嗣! いつの間に季封へ来たんだ!?」
「つい先ほどだよ。秋房、集中しないといい一手は取れないよ」
「お前に言われなくても……!」
 ――それから、秋房も胡土前も、うめいたり、またはぶつぶつと独り言を呟きながら碁石を打った。


 こういう対局に横から口を出すことは好まれていない。それに真剣勝負に横やりを入れるような無粋は好まない性分ゆえ、古嗣は興味深く二人の勝負を見守っている。
 静か……ではない時間が過ぎた。胡土前が自らの手を呟き、秋房が悩んでいる際にうめく以外は、風の音がするぐらいだ。
 そうして少し時が経ったと思ったのは、遅々として進む碁盤に、秋房の持つ黒い石が目立ち始めてきたからだ。
 廊下をばたばたと駆けてくる足音が聞こえて、幻灯火や詞紀らと振り返った途端、子供達が三人を取り囲んだ。
「げんとーかさまぁー! いっしょにあそんでー!」
「ひめさまぁ! くーそさまがおやすみにするってー! おさんぽいこー!」
「ふるつぐさま、けまりおしえてー!」
 と、子供に好かれる三人が囲まれて、その場はいったん騒がしくなった。
 その時、水のないここで、水が吹き上がる音を聞いて、視線は一点に集中した。すなわち二人の間にある碁盤へ。
 碁盤は吹き上がった水のために横に倒れて、石は無残に床に散らばっている。
「……不自然な水柱だね」
「ああ、十回勝負をして、五回は不自然な水柱が上がった」
「胡土前……おとなげないな」
 溜息をつき、頭を横に振る古嗣だが、詞紀に至ってはかける言葉すらなく、顔をそむけて息を吐いている。
 当の胡土前は、不思議そうに水柱を見つめて、頬を掻いているが、――水の術は彼の一族の得意である。
「姫。僕は子供達の遊び相手になってくるよ。用が出来たら声をかけて欲しい」
「はい、古嗣様。お疲れなのに、申し訳ございません」
「いいんだ。子供達の笑顔を見るのは楽しいし、――それに、君が迎えに来てくれた時に、もう疲れは癒えてしまったから」
 ――詞紀は、頬を染めて微笑する。いつものように「ご冗談を」といった返事のないのが、古嗣の内にある自惚れをもたげさせた。


 ――春香殿の自室にて、巻物に日々の徒然を簡単に書き留めていた手をぴたりと止めて、今日の出来事を思い返した。
 久しぶりに古嗣がこの季封に帰ってきた。(この際、帰ってきた、という表現が正しいか否かは別とすることにする) あの戦いで共に行動した人達が揃うことがとても喜ばしかった。
(このままで時が止まればよいのに)
 そうならないと分かっているから、反対にそう望んでしまう。人間の切ない性分である。
 終わらない、と諦めていた冬が明け、春になり、そして夏になった。
 夏の夜風は意外と涼しく、簾を押し開けて部屋の中へと吹いてくる。
 あの囲碁のやり取りとて呆れはしても嫌ではない。明日はどうしようかと考えながら、筆置きに筆を置いた。
 立ち上がって、開けた蔀戸から星明かりの庭を眺めた時、記憶の中で笑う、懐かしい面影を見た。

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