涙の理由

 ――景観は美しいが、そこには季節という概念がないのが物足りない。
 そう感じてしまうのは、先刻知った事実のせいだろうか。
「何を考えている」
 声をかけられて振り向くと、空疎尊がゆっくりと歩を運んでくるのを見た。彼は詞紀と肩を並べて、同じように幽世の遠景を眺めたが、
「……風波の言ったことを気にしているのか」
「は、……いいえ」
 頷こうとして、詞紀は無理やり首を横に振った。無理やりな笑顔を作って、空疎尊の横顔を見上げると、
「落ち込む道理など、ないではありませんか。私も、玉依姫を継ぐ娘を生むために、あなたと契約を交わしたのですもの。それどころか、あなたをそのために利用していたことに対して、後ろめたい気持ちがあったぐらいなんですよ。風波尊様から話を聞いて、すっきりしました」
「ああ、そうだったな」
 饒舌になる詞紀を横目で見つめていた彼も、目を閉じて唇の端を引き上げた。
「我も八咫烏の一族を再生させるために、優れた血筋の女を求めて貴様と出会ったのだ。互いに気にする理由など何一つなかったわけだな」
 ――風波尊から告げられた事実を、空疎尊の口から聞くと、何故だか詞紀は胸の奥が軋むように痛む。聞かされた当時は、今ほど強い衝撃ではなかったはずなのに。
「しかし、娘が生まれれば、また貴様と同じ宿命を抱くのか。……貴様は、それでよいのか? 娘に、自分の苦しんだ宿命を背負わせて」
「それは……生まれた子の心の強さが……」
 と、口にしながら、声が震えて後が続かなかった。その答えがひどく無責任なものに感じられた。そして、思い浮かんだのは母の面影。
 母は同じことを考えて、詞紀に玉依姫を継がせたのだろうか? ――あの、やさしく笑っていた母が。
 それに、いつか生まれるであろう自分の子について、頭の片隅にもなかった。考えていたのは空疎尊のこと。そういえば旅に出る前も、旅の途中も、彼は物憂げな表情をしていることが少なからずあった。
 今は将来のことなど、どうでもよかったのだ。
 ただ、今は、――。
「――空疎様。吹っ切れたと思っているのに、瞼が熱くなるのは何故なのでしょう」
 その熱い瞼から涙は溢れて止まらない。
 空疎尊は《玉依姫》にとって、娘を生むために必要な存在でしかなかったのに。――いや、神の血を引く者であれば、空疎尊でなくても構わなかった。
 でも、今はそれは空疎尊でなければ考えられない。
 むしろ、空疎尊が詞紀にとって、ただそれだけの存在なのか。
 頭の中で答えが出ない代わりに、涙は溢れ、胸が痛い。何か美しいものを見ると、空疎尊を思い浮かべている。辛い時、側にいて欲しいと切に願っている。例えば今がそうだ。
「詞紀……」
 そう名を呼んで、彼が詞紀の肩を抱き寄せた。
「何も考えなくてよい。今だけは、我らはただの男と女だ」
 ――《ただ》の? だが詞紀は体の中に《オニ》を宿している。今のところ、おとなしくしているが。
 空疎尊の肩に頭を乗せて、そっと目を閉じると、聞こえる音と言えば息遣いのみで、自分の状況を今だけ錯覚させられる。――ここが季封で、自分達は普通の男女ではないかと。
 涙が熱いことを頬で感じ、(この方は特別なのだ)と、詞紀は確信した。

リク:「空疎尊と詞紀で切甘か甘々」