(秋篠古嗣と蘆屋道満)

 検非違使寮から出た時、
「おい、兄ちゃん」
 と、呼ぶ声を聞いたので、何となく振り返ると僧形の男が物珍しそうな目で自分を観察していた。
「確か……蘆屋道満殿ですか」
 古嗣は柔和な笑みを浮かべて聞くと、相手は満足そうに大口を開けて笑った。
「俺も有名になったもんだな。名前を知られているとは。それより、兄ちゃん、あんたは」
「秋篠古嗣と申します」
「ああ、大納言の吉影の息子か?」
 と、そこまで言ってから、道満は胡散臭そうに片目を細める。
「しかし、吉影に正式な奥方がいるとは聞いたことがないんだがなあ」
「調べればお分かりになりますが、私は養子なので」
「道理で」
 まるでそれが最初からの目的であったかのように、道満はにんまりと笑って先を続けた。
「検非違使にしてはあり得ない、呪術的な匂いがしてると思ったぜ。しかも、俺とは相いれない術者の匂いがな」
 それだけ言って、立ち去っていった。残された古嗣は、表情を凍りつかせて立ち竦む。星を突いたように当てられたことではない、自分が道満を道満だと知っていたのも、また彼とは相いれないと思ったのも、この身に流れる血がある術者と同じなのだと改めて痛感したせいだった。

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(空疎尊と風波尊)

「兄上!」
 と、高床の館の階下から声をかけた時、兄の後ろにいた部下の目が鋭く風波尊を制した。
 村の中で、一族をまとめる次代は空疎尊と風波尊の派閥で割れている。だから空疎尊の館に弟が来ることは他の者にはあり得ないのだろう。
 しかし空疎尊本人は、部下を下がらせると、
「どうした。このような目に遭うのに、我と話があるとは、よほど何かあったのだろう、風波」
「は、はあ、その」
 階を下りてきた兄を前に、弟は言いよどんで視線をそらした。
 一族をまとめる長とか、そんなものがなければ普通の兄弟として暮らして、思ったこともすぐ言い合えたかもしれないのに。
 現在の関係では、他愛ないことすら喋ることもためらわれる。
「どうした。悩みか? 我は貴様の兄だぞ、何でも聞いてやる」
「いえ、あの、悩みではないんですが、……その」
 ――村の重鎮の娘と、婚約が調ったのだ。だがその婚約は、風波尊が次代になるかもしれないと踏んだ老人達の小癪な知恵だろうし、そのために兄とさらに距離が遠くなるかもしれない。
 一時はその娘とさえ口を利かないようにしていたぐらいだ。だがいつしか彼女を愛するようになり、風波尊は「彼女ならば」と婚約を受け入れた。
 それを、兄に祝福して欲しかった。でも、自分の口からはなかなか言えない。
「今度、兄上と手合せを願いたいのです」
「手合せ?」
 空疎尊が呆れたような顔になった。そして笑みをこぼし、風波尊の肩を叩いて背を向ける。
「ああ、いずれ」


 ――次の日、婚約者と共に過ごしていた風波尊に文が届いた。たった一文で短く、「幸せに」とだけ書かれていた。

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(胡土前と綾読)

 目が覚めると同時に腹の虫が鳴った。
 いつもだったら焚いた米と汁物の匂いが漂ってきて、さらに空腹を煽るものだが、今朝は何もなかった。
 大蛇一族が使っていた見張り小屋のなれの果てで、かび臭さがよけいに鼻をつくだけだ。
「……おい、綾読。起きろ、起きて飯を作れ」
 離れたところでは枕辺に古い書物を散らかして、少年が熟睡の中にある。――食事の当番はいつもこの綾読がやっている。失敗と成功は半々だったが、最近は食べられるものを作れるようになっていた。
「綾読。腹が減ったんだ、飯を作れ」
 側に行って起こしてみても、少年は気持ちの良さそうな寝息を立てて、起きる気配はなかった。
 このままでは朝から飢えて力尽きること必至。胡土前は久しぶりに自分で食事を作ることにした。


「……すみませんでした、胡土前様!」
 出来た朝食の前で、やっと目覚めた綾読が土下座して頭を深々と下げた。
「書物の内容が面白くて……しかし起きれるとは思ったんです」
「ああ、もういい、綾読。それより俺が作ってやったんだ、ありがたく食え」
「はい! いただきます! これは、お粥ですか、重湯ですか」
 何ということはない、焚きすぎて失敗した米だ。胡土前の好みは歯ごたえの固いほうである。
「この汁物は、汁に味がついているのでしょうか」
 うっかり具を入れ忘れた。
 腹も満たされない食事を終えて、胡土前は溜息をついて言った。
「……綾読。これからは徹夜禁止な」

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(悪路王と幻灯火)

 蝦夷の集落は篝火を焚いて騒々しい。
 彼らを苦しめていた朝廷の役人に一泡吹かせた戦をやった。それに舞い上がる気持ちは分からないでもないが、離れたところから見つめる幻灯火の心は晴れない。
 特殊な力のために一族を皆殺しにされたとはいえ、元々は戦をすることには消極的だった。蝦夷と朝廷の戦いに参加しているのも、恨みを晴らすというより(それも少しは持ち合わせていたが)、友人の力になりたいという気持ちの方が強い。
 その友人が、仲間達の元から外れて、こちらへ歩いてくるのを視界に入れた。
「よお、幻灯火。そんなとこにいないで、あそこに加われよ。いろんな固まりに挨拶しなけりゃいけない俺の身にもなれ」
「……ああ、それはすまない、アテルイ」
 幻灯火は少し笑って答えた。友人はその隣にしゃがんであぐらを掻いた。
「なあ、幻灯火。これからだぜ。あれだけじゃ手ぬるい。朝廷の奴らに、東北まで侵入する気を無くさせるぐらい痛めつけてやらないとな」
「その後はどうする」
「……その後は、どうするかなあ、穏やかに暮らせるといいな」
 ――穏やかな暮らしが普遍となった時、アテルイは英雄として崇め続けられるのだろうか。「瞳の色が違う」、それゆえにいない者のようにして成長したアテルイが。
 心配する幻灯火の横で、アテルイは思いついたように言った。
「ああ、そうだ、集落の統治は押し付けて、俺達二人で旅にでも出るか」
「全く……無責任なことを思いつく奴だ」
 半ば呆れて、幻灯火は笑った。

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(空疎尊と詞紀)

 ――暗い祠の夢が終わると、急にあたたかい感覚を覚えたことで詞紀はゆっくりと目を覚ました。
 春香殿、庭に面した縁側の柱の一つに体を半分預けて、どうやら自分は居眠りをしてしまったようだ。
 ここに座った時は、冬ではあるけれど小春日和で、少ない日差しがやけにあたたかくて、しばらくそこに居たいと思ったのだ。
 完全に目が覚めた、と思ったら肌を刺すような空気が張り詰める夕暮れ。
(いけない)
 と、思って身を起こした時、衣ずれの音がした。今まで自分にかけられていたらしい、黒衣が足元に広がっている。
「――目を覚ましたか」
 背後から声がした。振り返ると、格子戸の前にあぐらを掻いて、空疎尊がこちらを見ている。
「……空疎様。あの」
「我が妻とあろう者が、所構わず居眠りをするとはな。もう少し危機感を持てばどうだ」
 薄い笑みを浮かべて皮肉を口にする。
「も、申し訳ございません」
「よい。……ところで、体調は悪しくはないか」
「は、はい。大丈夫……のようでございます」
 頭が痛いとか、喉が痛い、という変化はない。冬の季節に、日がなくなるまで眠ってしまったというのに。
 と、そう考えたところで、黒衣に再び視線をやった。そして(ああ)と頷いた。
「玉依姫。それを返してくれるか。あまり滞在していると、小うるさい男からしつこく絡まれるのでな」
「はい。かしこまりました」
 「小うるさい男」が誰のことか、すぐに分かったので、詞紀は思わず笑みを浮かべた。
 差し出した黒衣を受け取りながら、空疎尊はふとその顔を垣間見て、それからすぐに視線をそらす。
「……何故、いつもそのように笑わぬ」
「空疎様?」
「何もない」
 黒衣をまとって、彼はきびすを返した。
 その背をしばらく見つめてから、
「ありがとうございます」
 と、声を上げた。彼は立ち止まって振り返り、皮肉な笑みを口元にためる。
「礼を言うより、どこでも寝る癖を治すが先であろう」

 ――いつもは苦手な、そういった口調も、今は何だかやさしい気がして、詞紀は微笑んだ。

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(胡土前と詞紀)

 木刀の打ち合う音が数合響いてから、小柄な体が相手の気合いに押されて尻餅をついた。
「勝負ありだ。だからもう休ませろ、姫さん。秋房とあんたと、何十回も攻めてこられて疲れてんだ」
 冬獅殿の稽古場である。尻餅をついた姿勢の詞紀の前で、胡土前は大きく息を吐いてあぐらを掻いた。今まで二人が打ち合っていた脇では、秋房が尻を天井に向けて気絶している。
「……秋房といい、姫さんといい、限界ってのはねぇのかよ。責任感があるのはいいが、自分を労わらないと壊れちまうぞ」
「ええ……そうですね。秋房が目を覚ましたら、そう伝えておきます。尤も……無駄でしょうけど」
「違ぇねえ」
 そこで二人は笑った。笑われた張本人はその声を聞いても目を覚ます気配はない。
 しばらく季封の話や、外の話で盛り上がっていたが、
「そういえば、胡土前様、息抜き程度に囲碁でもどうですか」
 と、軽い気持ちで詞紀が言った。しかし胡土前は目を光らせ、
「いいのか? 俺は強ぇぜ」
「え、いえ、あの、ですから息抜きで」
 何故だか今までの稽古と変わらないような、やる気の表情の胡土前である。
 彼のやる気に戸惑いながらも、碁盤を挟んで向かい合う。交互に石を置いていくと、詞紀の持ち石が陣地を増やしていくにつれて胡土前の独り言が多くなった。
「……ここでこの石を、いや、こっちのほうが」
 と、自分の手番を声に出して呟いている。
(負けず嫌いなのかしら)
 手を抜いている、というのではないが、詞紀は本当に軽い気持ちで遊んでいるのである。息抜きと言ったのは自分だけど、何だか胡土前に対して悪い気がした。
「あの、胡土前様。あまり根を詰めても、息抜きにはなりません」
「……いや、詰めてねぇよ。俺は遊んでやってるんだって」
 上げた顔は、余裕を無理やり張り付けたような表情である。
 このまま行けば詞紀が勝ちそうだけれど、わざと負ける手を置けば相手に失礼だと考えるのは剣術を習う者の性。だから詞紀は考えた通りに石を置き、また陣地を増やす。そのたびに胡土前がうめき声を上げた。
 碁盤は詞紀の石が相手を追い詰め、あと一手で勝負あり、という局面において、驚くことが起こった。――室内である冬獅殿に、水柱が上がった。碁盤を倒して、石をばらまいて。
「おお? 急に不自然な水柱が上がったな。残念だが、勝負はお預けみてぇだ」
 そそくさと立ち上がって背を向ける胡土前。
 詞紀は吹き上がる水を浴びながら、茫然と彼を見送った。――「勝負はつかなかった」、それが胡土前にとって大切なのだ。剣で負けないのだから、囲碁で負けるわけにはいかない。つまりは彼も秋房や詞紀と同じ、負けず嫌い。
 しかし、このごまかし方は、
「……おとなげないです、胡土前様」
 季節は冬。さらに水柱のために、頭から濡れてしまった。
「寒いのですが、胡土前様」
 と、呟いてみるものの、彼は逃げるように稽古場を去っていった後だった。

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